16歳の合衆国

16歳の合衆国

The United States of Leland

2004年8月13日 新宿 シネマスクエアとうきゅうにて

(2003年:アメリカ:104分:監督 マシュー・ライアン・ホーグ)

「あの日の事は覚えていない。一番大事なことに限って何の痕跡も残さず消えてしまう」・・・ガールフレンドの知的障害の弟を殺害した16歳の「白人」の少年、リーランドのこの言葉から映画は始まります。

良家の子供であり、知性があり、優しく、誰が見ても「虫も殺さないような」少年。ガールフレンドの弟のことをとても大事にしていたのに・・・周りのショックは大きい。しかし、リーランドは、少年院の教室で渡されたノートにこう書く・・・'I know what they want to know.(彼らが知りたいことはわかっている)

それは、「何故」という動機。家族が、遺族が、社会が理由を知って安心、納得したいのは十分わかっている、そうすれば「誰かのせい」になるから、「私のせいではなかった」と安心できるから・・・そして、冒頭の言葉になるわけです。覚えていない・・・と。それが周りに大きな不安をもたらす。

人間の感情が大別して喜怒哀楽、ならばこの映画は「哀」の映画です。そして風景は人々は常に光に満ちて透明で哀しみに満ちている。

監督の分身である少年院の教師・パール(ドン・チーゲル)が、リーランド(ライアン・ゴズリング)との会話の中で、なんとか理由を探ろうとしても、リーランドは哀しい目をするばかり。自分がしたことは認めるし、罪を軽くしようと黙秘しようなんて思わない・・・そして逆に尋ねる「恋人に嘘をついて、浮気をすることは罪とは思わない?」

さらに断片的にわかってくるのは、一見平和に過ごしている人々の「哀しみ」であって、リーランドは脆いガラスのように繊細で優しいが故に、リーランドの目に映るものは「優しい哀しさ」でしかない。

理由は「哀しさ」なのでしょうか・・・全編を通してそう思います。誰が悪で、誰が善なのではない。哀しみは善と悪という二分から生まれるものではないということ。

少年院にいる少年たちは、黒人、ヒスパニック、アジア系・・・その中で白人のリーランドは「悪魔崇拝者」と逆差別されてしまう。

悪魔という言葉があるのなら、善魔という言葉もあってもいいのではないか・・・その善魔とは、著名な作家である父(プロデューサーでもあるケヴィン・スペイシー)かもしれない、ガールフレンドのベッキーかもしれない、そして、リーランドを「取材」して本を書こうとしているパール自身なのかもしれない。その最たる善魔がベッキーの姉のボーイフレンドで、ベッキーたちと同居している好青年アレンかもしれません。

リーランド役のライアン・ゴズリングの哀しみがあふれる目と寂しそうな口元。それだけでも見ていて切なくなります。

哀しみはたたえているけれど、怒りや恐怖や不安を見せない凛とした表情。

少年犯罪をメインにしていますが、人間や社会の矛盾や哀しみを、様々な人々をスケッチしながら、真面目に綴っていくことへの勇気・・・実際、脚本を書き上げても、映画化しようとする会社はなかなかなかった・・・脚本の良さは認めるけれど、そのテーマのせいで尻込されてしまったというのもうなずけますが、この映画はあくまでポジティブな視線でやわらかく作られていますので居心地の悪さは感じさせない、というのが秀逸。

私はこの映画、とても好きですね。

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