青い塔

青い塔

2004年8月13日 シネマアートン下北沢にて

(2000年:日本:146分:監督 坂口香津美)

ひきこもり、という言葉はいつから使い始めたのでしょうか?

私が学生の時も突然学校に来なくなってしまった子とかいたのですが、別に「ひきこもり」とは言わなかったし、アイツ、ひきこもりだったから・・・などと言う言い方もしなかった。

病気と同じく「関係ない人には全く理解、実感できない世界」を実感させた、というのがこの映画の意義のように思ったのですが、この映画の中で「ひきこもり」という言葉は使われていません。

「ひきこもり」というひとことで、「ああ、ひきこもりね」で現実を何もわかっていないのにのに「わかってしまったようになる」のが怖いことだと思います。無知の怖さではなく流行語、新造語を使うことによって実は、難病のようにレッテルを貼って拒絶しているのだ、ということがわからない無意識の無神経さが怖い。

この映画の公開に難色を示した人、またはこの映画に拒絶反応示する人って昔、人をいじめる側だったんじゃないかな。

ですからこの映画はとても神経質で繊細です。会話らしい会話もなく(というか会話が出来ないのです)、何故、19歳の主人公・透は外へ出られないのか、母を拒絶しているのか・・・精神の病なのか、ただのわがままなのか、最初はわからない。とにかく無力にうちひしがれてしまっている青年。

それが現実なのでしょう。そういう現実は直視するのは辛い・・・けれどもこの映画は観ていて辛くはないですね。

夜しか出歩けなかった透が、昼、外に出られるようになる・・・それだけでこんなに至福感を味わえるのだから。

透の理知的かつ若者らしい理屈の独白は自分のことを十分わかっているのに、体は言葉は何もできない弱さって誰にでもある青春のヒトコマ、変でもなんでもない。青春映画ですよね。

こうすればひきこもりが治りました、もうひきこもりじゃありません、という説明の映画ではないですから。

精神分析の先生が書かれているように、過去の自分が妹を死に追いやってしまった罪悪感から・・・という設定は、その絶望的な状況にすら「すがってしまう」可能性があるから、そこをあまり強調しない方がいいとは思います。

透に必要なのは『茶の味』に出てくるアヤノ叔父のような大人だったりして。

アヤノ叔父は、いつも飄々としていて相手が子供であっても子供扱いせず、説教もたれず、何故か昼間家にいる幸子に「あれ、今日学校は?」「あるよ」「あ、そう」でさっさと昼寝をしてしまう。

高校生の甥のハジメに真顔で「オレのさぁ~○○○デビューなわけよ、で・・・呪いの森ってのがあったのよ、でさ・・そこでさ・・見ちゃったのよ・・」と下らない(けれどおもしろい)話を同じ目線でリアルに語る。

親の立場、子供の立場っていうのがきっちり区別されている間にいる「変な大人」って大切・・・なんて思いました。皆と同じでなくても変ではないし、暗くても別にいいのですって、態度で見せてくれる人かな。なかなか難しいけれどね。 

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