地球で最後のふたり

地球で最後のふたり

Last Life in the Universe

2004年8月3日  渋谷シネアミューズ・ウェストにて

(2003年タイ=日本=オランダ=フランス=シンガポール:107分:監督 ペンエーグ・ラッタナルアーン)

ペンエーグ・ラッタナルアーン監督は『6ixty Nin9』『わすれな歌』と全く違うテイストの映画を作っているのですが、この映画はキャストに浅野忠信をはじめ日本人、撮影監督に(あの)クリストファー・ドイルという国の枠を超えた前2作と違う不思議アジアンワールドを作り出しました。

監督によると前2作の反省として①劇中にジョークが出てこないこと②ケン・ローチ作品のように(!!)厳格であること、を志したそうです。

前2作は大笑いする映画ではないけれど、ブラックだったり、微笑ましかったりして笑いを誘うような部分がありましたね。

確かにそう言われてみるとそうでした。

主人公のケンジはバンコクの日本文化センターに勤める青年。いつもきちんとした身なりをして、部屋は病的に潔癖といえるほど、整然としたストイックな生活。しかし、ケンジはいつも「自殺」、死ぬことから離れられない。何故、そう思うのかは語られないのですが、モノローグで「(自殺の理由は)借金?失恋?・・・とんでもない」と言うように「何か」を背負っているらしい。

ひょんなことから知り合ったタイ人の女性、ノイは逆に散らかし放題のだらしない生活をしている。3日後には日本に旅立つ、そんな2人の4日間の物語。

整然とした部屋だけでなく、ケンジの潔癖ぶりは外で食事をしても自分で持ってきた割り箸を使う、汚れたもの、整然としていないものはめざとくキレイになおす・・・という細かさが、物腰は優しくても無表情で他人を寄せ付けない冷たさ、を全身で醸し出しています。また、川から身を投げようとするときに落とすオレンジ・・・のファンタジックな使い方。

ノイとは正反対のケンジ、この2人がノイの死んだ妹、ニットを縁に共同生活をはじめるのですが、もちろんノイの雑然とした部屋をケンジはキレイにしようとします。

このシーンがケンジが立ち動く姿は出さず、散らかった物や雑誌やチラシが宙を舞い、収納先にするするとおさまっていくという不思議な映像、また、ノイが突然妹ニットにすりかわったり幻想的なイメージがちりばめられています。

出てくる日本人の役者さんが、松重豊、竹内力、三池崇史監督、田中要次など、「へんな日本人」というのではなく、うなってしまうキャスティング、とても豪華でしっかりしています。へんな日本人、日本語は全くありません。

特に、(竹内力ブランドを着こなした)ヤクザの親分、三池監督は後半にバンコクに乗り込んでくるのですが、存在感ありますね。(関西空港ですごむ三池監督の「アンタ、○に○○○ついてるぞ」には、すみません、笑ってしまいました。あと文化センターの図書館に三池監督、浅野忠信主演の『殺し屋1』のポスターがはってあったり遊びの部分もあります)

ケンジとノイは言葉の壁もありますし、ケンジはもともと人を寄せ付けないので、すぐに男と女の仲になるわけでなく、恋愛というより友情ともいえる距離があります。その距離が少しずつ近づいていく様子がとても丁寧。

撮影のクリストフォー・ドイルは、今までの「イメージ」を払拭させたいという気持ちがあったそうですが、散らかったノイの部屋がとても気に入ってしまったそうで、そこらへんは「らしいなぁ」と思いますが、どちらかというと硬質な冷たさが感じられる映像の数々でした。

それがいわゆるタイの熱気と矛盾しているので、タイらしい熱気は感じられない「タイ映画」らしからぬ、タイ映画。

でも出てくる食べ物、果物などタイならではのものがたくさん出てきて「タイなんだけど、別の国でもあるような」不思議なアジアンワールドを作り出しているのがとても興味深いところです。

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更夜飯店

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