レオポルド・ブルームへの手紙
Leopold Bloom
2005年1月21日 銀座ヤマハホールにて(試写会)
(2002年:イギリス=アメリカ:103分:監督メヒディ・ノロウジアン)
手紙を書くという行為は日記を書くのとは違うものですね。
「誰かに読んでもらいたいことを書く」ということですが、私はパソコンを始める前はよく手紙を書きました。良かった映画を観たら絵はがきを書く、または同じ趣味を持っている人達と文通をするということを随分長くやっていました。
自分で手紙を書いていて思うのは、確かに自分の気持ちを誰かに伝えたいと思う気持ちもあるけれど、文章を書くということで自分の中の気持ちを整理して見つめ直していたのではないか、ということです。それは今こうして書いているのも同じなのですが。
この映画は、母親に望まれず産まれ、ずっと疎まれ続けながらもその母から逃れられない少年レオポルドが、刑務所の囚人宛に手紙を書く。それを受け取ったスティーブンという殺人罪で15年服役している青年がまた返事を書いているらしい・・・という設定になっています。
お互い顔を知らない者同士だからこそ言えること・・・そんな雰囲気なのです。だから少年は手紙に自分は母にとっての烙印である、といきなり正直に書いています。
映画はその囚人スティーブンが刑期を終えて出所する所から始まります。その風景がとても透明感があって美しい。刑務所の周りは鉄条網でぐるぐるになっているのですけれど、太陽の光でキラキラとそれが輝いています。
もと囚人ということで安い賃金で、モーテルのレストランの厨房に雇われます。雇い主はサム・シェパード。また店の常連なんだか悪質な嫌がらせなのか・・・タチの悪い常連客がデニス・ホッパー。
そして少年レオポルドの出生のいきさつが同時進行します。母(エリザベス・シュー)は、夫と娘を亡くしたのは自分のせいだと決めつけ、レオポルドには訳あってとてもつらくあたります。
母が、とてもインテリなのにどんどん自分で自分をおとしめているという悲しい姿をずっと見守らなければならない息子。
もちろん、少年レオポルドの存在はキリスト教でいう原罪(人間は生まれながらにして罪を持っている)の象徴でもあるのですが、ジョイスの『ユリシーズ』の忠実な映画化ではありませんが、十分キリスト教的。
スティーブンもレオポルドも無口で、おとなしく、ひたすら鉛筆で便箋に文字を書き連ねる。その文章はあまり多く語られませんが、ラストになって大きな木の下から見上げるとびっしり文字の書かれた無数の便箋がひらひらと落ちてくる。寝ころぶスティーブンの姿をカメラがどんどん引いていくと頁の開いた本が整然と周りに並んでいるシーンがあります。
ここでセルゲイ・パラジャーノフ監督の『ざくろの色』の冒頭のシーンがだぶります。大雨で教会の本が濡れてしまったのをいたるところに干している。たくさんの本の頁が風でぱらぱらする隙間に寝ころんでいる少年。
詩人、サヤト・ノヴァの文学への目覚めをそれだけで語っているシーンですね。
スティーブンが書いているのは、手紙なのか、小説なのかわざと曖昧にしています。とにかく文章を書くこと、それによって自分の気持ちを昇華させること、その静かな姿のジョゼフ・ファインズのたたずまいがとても静かで綺麗で、何故かせつない。
読み手はレオポルドなのかもしれないけれど、もしかしたら誰の目にも触れないものなのかもしれない。文章をひたすら書くことの寂しさと慰めと喜び・・・この雰囲気がとてもいい映画です。
更夜飯店
過去持っていたホームページを移行中。 映画について書いています。
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