故郷(ふるさと)の香り

故郷(ふるさと)の香り

2005年2月20日 銀座テアトルシネマにて

(2003年:中国:109分:監督 フォ・ジェンチィ(霍建紀)

自分の10年前のことを思い出す・・・となるともう曖昧で「何があったか」は覚えているけれども、「その時どんな気持ちだったか」は、その時は大変だったけれど、今はなんとも思っていない、そんな事が多いのです。

主人公のジンハー(井河:グオ・シャンドン)は、10年ぶりに故郷の村に帰ったけれど風景は全く変わっていない・・・しかし、偶然会ってしまったかつて仲が良く恋心を抱いていた少女、ヌァン(暖:リー・ジア)は変わり果てている。

ジンハーはヌァンと話している内に「変わってしまったのは自分だ・・・」というものを思い知らされてしまうのです。

次々と鮮明に思い出される子供の頃から村を出るまでの村での生活。

ヌァンは歌と踊りの上手い美しい少女だった。自分は大学を目指す学生だった。2人とも変わって忘れてしまった。忘れるということは悪いことばかりではなく、人を責める気持ちも遠く昔の事になって今更何を責めるのか、という気持ちに風化してしまっています。

10年ぶりに出会ったジンハーがヌァンにまず聞くのは「僕を恨んでいる?」ということですが、ヌァンは「今、恨みたいのはこのお天道様よ」と言うだけ。

ジンハーはヌァンに負い目がある、ヌァンはジンハーを傷つけた・・・でも2人は別れるとき約束した、けれどもその約束も忘れてしまった。何よりもジンハーが苦しむのは「忘れてしまった」という事です。

恨みも忘れてしまったけれど、約束を守るという気持ちも忘れてしまった。忘れてしまったんだ、自分は・・・お互いもう昔のこと、と許し合っているのに、気持ちは「忘れてしまった自分が許せない」のです。

どうして2人は許されない気持ちになってしまうのか・・・それはヌァンの今の夫が昔は、耳が聞こえず口もきけないただ無学で働くだけの村の農夫、ヤーバ(香川照之)で、ヤーバは全く「変わっていない」から。

いつもアヒルの群れを追って歩いて、ひたすら働くヤーバは、粗暴でどちらかというと嫌われ者だったのに、何故、ヌァンはよりによってヤーバと結婚したのだろう。

ヤーバは、耳が聞こえないから、2人の会話は聞こえない。けれど表情で2人の気持ちをわかってしまう。しかし2人はヤーバの気持ちが最後の最後になるまでわからないのです。

実はヤーバもまた2人に対して、密かな負い目がある。3人とも許し合ってももう遅いのです。しかしヤーバが最後にとる行動は、それを見事にひっくり返すもの。

フォ・ジェンチィ監督は前の『山の郵便配達』でも出てくる機械は山のはるか下を通るトラックとラジオだけ、という徹底ぶりだったのですが、今回は機械らしい機械は自転車とワンタッチで開く傘だけです。

ヤーバとヌァンの娘はジンハーのおみやげの飴を食べたあとも、包み紙をガラス瓶に入れて泳がせる、そして鏡に綺麗な包み紙を貼っていく。

テレビもない何の楽しみもないようでも、幼い娘は言葉より手話を先に覚えたお父さんっ子です。

村の自然・・・田園、山、古い家、昔ながらの台所、村にひとつだけある大きなブランコ。ブランコに2人乗りするジンハーとヌァン。

ヤーバは誰もいない時、こっそり1人で漕いでみる。それが大きく揺れて、遠くの風景が垣間見えて・・・というのをとても丁寧に撮っていますね。よくよくみていると凄いアングルの数々なのです。

ヤーバ役の香川照之が、粗暴さとその下に秘めている気持ちを抑えて抑えて・・・というのが素晴らしい。

手話以外の会話がないながらも、1人娘をかわいがってかわいがって・・・というのがよくわかる食事のシーン。

大きなキュウリを1人かじっていたり全く粗暴、でも娘の茶碗におかずをさっと乗せてやる一瞬の愛情。外では稲作、家では蚕を飼ってとにかく食事して、酒飲んで、寝る以外は働いてばかり。

街の大学に進学してそのまま市の役人になってしまったジンハーの方がずっとずっと知的で優しい。でも、ジンハーは一番大切な優しさ、約束を守るということを忘れてしまった。それは取り返しはつかない。

そんな現実がとても叙情的に美しい情景でもって綴られた映画。綺麗な絵のような構図。奥行きのある映像。静かで天から降ってくるような優しい音楽。監督の目は許さないというものではなく、許されない人々を静かに優しく見つめる懐深い視線です。

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