ミリオンダラー・ベイビー

ミリオンダラー・ベイビー

Million Dollar Baby

2005年5月16日 有楽町よみうりホールにて(試写会)

(2004年:アメリカ:133分:監督 クリント・イーストウッド)

クリント・イーストウッドは監督として映画を撮るととても抑制をきかせた映画を作るような気がします。

この映画も、老いたボクシングジムのオーナー兼トレーナー、フランキー(クリント・イーストウッド)、31歳というボクサーとしてはもう若くない女子ボクサー、マギー(ヒラリー・スワンク)、もとボクサーで今はジムの雑用係をしている老人(モーガン・フリーマン)という派手さからはほど遠い3人を中心とした、スポーツものというより、人間ドラマです。

ボクシングのシーンも、カメラをたくさん使って色々なアングルで撮るとか、スローモーションにするとか、特撮を使うといった事は一切していません。生のボクシングのあるがままの姿をカメラは映します。

もう若くないのにフランクはマギーのことを、いつも’girl’と呼ぶ。「女性にはもてない」などという時はちゃんと'lady'という言葉を使っているのに。しかし、何故タイトルが'baby'なのか?というのは最後まで観るとああ、そうか、という具合になっているのです。

家族とは離れて一人でウェイトレスして自活しているマギーには「失うものなどない」だから、マギーはどんどん強くなる。

試合に出ても負けなしです。トレーナーのフランキーは応急処置のエキスパートで、試合で鼻を折られても、ボキと手で治してしまう。2人のコンビは百万ドルを賭けたタイトルマッチまで、とんとんと進んでいく。

この辺の苦労というのは一切描かず、マギーもフランキーも快進撃。しかし、それを黙って見つめているのが、この映画のナレーションをしているモーガン・フリーマン。冷静な第三者、モーガン・フリーマンの目で語られる映画です。

ほとんどがジムの室内か、夜のシーンで、一部に光があたってシルエットを映し出す映像がとても地味だけれども美しい。

一筋の光はあるけれど、他は闇。昼間の光の中で動いているのは、マギーの堕落した家族達のエゴ丸出しの姿だけです。

光射すところには、マギーもフランキーもいられない。マギーがファイト・マネーで家族に家を買ったりしても、もっともっとと文句を言うばかりの家族が昼という世界にいる。

また、フランキーは実の娘とは疎遠で、家族の姿は一切ない。家族との断絶、というのがこの映画の背景にあります。

フランキーは、暇な時は、本を読んでいるか、ゲール語を勉強している、という静かなシーン。本物のレモンを使ったパイが食べたい、と夜、マギーと2人で行くレストラン。そんなささやかなシーンから、最初は’girl’はごめんだ、というフランキーがどんどんマギーの根性を認めていき、マギーもそれに応える・・・2人の間にあるものは師弟関係であり、友人関係であり、疑似親子のような雰囲気も出てきます。

だから血がつながっているというだけの家族よりも、師弟愛で結ばれた2人の方がお互いのことを、慈しみあえるという、後半になるのでしょう。

映像も光と影、勝負の世界も光と影、そして人生も光と影。老いと若さ、生と死、そういうもののコントラストのさせ方が、巧妙で、単なるスポーツ愛情物語でなくしている、最後の余韻もとてもいいです。

アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演女優賞、助演男優賞をとる、という冠のある映画ですけれども、この映画に貫かれている「良心や良識」といったものが、なるほど納得の受賞結果であったと思います。

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