マンダレイ

マンダレイ

MANDARLAY

2006年3月23日 日比谷シャンテシネにて

(2005年:デンマーク:139分:監督 ラース・フォン・トリアー)

前作、『ドッグヴィル』で、狭い村意識の中に潜む人間の欲、というものを描いたラース・フォン・トリアー監督、アメリカ三部作の2作目。

手法は、外に出ることなく舞台のように、家の中まで見渡せるというセットの中で、繰り広げられる人間像というのは変わりません。

また、映像の色合いもセピア、茶色を基調にした色合いの中に舞台のスポットライトがあたるような明暗の作り方も同じです。

寓話的で、わかりやすいことを余計なものを一切排除したシンプルな舞台設定で濃く描きます。

今回、グレース(=アメリカ)を演じるのはロン・ハワード監督の娘、ブライス・ダラス・ハワード。

前作と違うのは、流れ着いた街、マンダレイが70年以上前に廃止された黒人奴隷制度が今だに残っている事に怒り、前作で得た「権力」を最初から行使するところです。

「ママの法律」という定めで何もかも決められた村、マンダレイ。ママ(ローレン・バコール)の死により、グレースは、黒人達を自由に「してあげる」

しかし、いきなり自由ですよ、と言われて喜ぶのか、感謝されるのか・・・・と思いきや、逆に解放された黒人たちは、自由に戸惑うばかり。

決められた事を決められた通りにしていた方が、「楽」だったのです。

それを余所者がやってきて「さぁ、自由だ。何をしてもよい。もう何にも縛られない」と声高々に言った所で、何をどうするのか、さっぱりわからない。なんとか「教育」しようとするグレース。黒人たちの中にも疑惑と欲が現れ始める。

さぁ、自由ですよ、といきなり言われても困るのですね。私はこうしたい、こうありたい!と志高い人ばかりではないのです。

なにか、不自由があって、それに疑問、不満があって初めて、自由の開放感というのは感じられるのでしょうが、お仕着せの「自由」なんて・・・と思うわけです。

活花でも、最初は基本の型や規則があって、その通りにやっていく。そして何年かして最終的に「自由花型」というものになります。

もう、なんでも自分のやりたいように自由に活けなさい、というのが最後なのですが、ここで、大体の人は今までの型通りの方が楽だったことに気づきます。

私も、今日から自由花型です、と言われた時戸惑ったこと、また、さらにその自由花型には、終りがないことを知ることになります。

自由には、「ここでお終い」という決まりはないのです。だからもともと規則のもとで暮らしていた黒人たちは、「終りなき自由」に不安を覚えるのですね。そして、いくら掟のもとで、掟通りにしていたからといって、何も考えていないのか・・・というとそうではない。

そこを、グレースは見抜けない。

これは、アメリカが、かつてベトナム、朝鮮半島、そして中近東と「自由にさせる」という大義名分の元、戦争を始めた事のわかりやすい比喩になっています。そうしてその「解放」なるものは、次々と不幸を呼んでいった事実。

グレース役のブライス・ダラス・ハワードは、声のトーンが落ち着いていて、ヒステリックではなく、とても聞き取りやすい話し方をする。

高慢でもなく、本当に純粋な人種差別の怒りから、権力を行使するのですが、それは成功とはいえず、逆に苦しむ事になり、自分の中の欲に苦しむ。そんな娘を見つめてなにも言わない、父、ウイレム・デフォーが良かったですね。

ラストには、前作と同じくデビット・ボウイの『ヤング・アメリカン』が流れる。いやはや、本当に自由って何?

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