うつせみ
3-iron
2006年3月21日 恵比寿ガーデンシネマにて
(2004年:韓国:89分:監督 キム・ギドク)
この映画の韓国語の原題は「空き家」といいます。
日本語のタイトルのうつせみは、空蝉で蝉の殻の事。
謎だったのが英語のタイトル。これは私はゴルフをやらないから知らなかったのですが、映画を観て納得。ゴルフのクラブ、3番アイアンの事でした。
映画はいきなり庭の練習用のゴルフネットにバシッ、バシッとゴルフの玉が打ち付けられそのネットの向こうには、石膏のヴィーナス像が映っています。
そしてテソクという青年が家の玄関にチラシを貼り付けている。それは彼の仕事ではないようです。チラシが張ったままになっている、つまりドアが開いていない家に忍び込み、留守電が「旅行中」であると、そこでその家の住人のような生活を繰り返しているのです。
決して金目当ての泥棒ではなく、台所を使い、風呂に入り、洗濯をし、ベッドに寝る。そして家の中で1人で記念撮影をします。
金目当てではないとはいえ、これは立派な犯罪ですが、彼には悪意というものが全く見えません。
しかし、家の中を荒らさないとはいえ、ちょっとした事が、後々の惨事を予感させる、という所、『悪い男』あたりまでの、ストレートな暴力の描き方はしないのです。ソフトであっても、とても「痛い」事を緊張感をもって描き出します。
そして何軒目かの家に侵入したテソクが出合う、家に閉じこめられた人妻、ソナ。
冒頭のゴルフネットは、金持ちらしいソナの家の庭。しかし、ソナは独占力が強くて、強引な夫にまさに「閉じこめられている」状態で、虚ろな表情をしています。だから、家の玄関に張ったチラシも気がつかないし、テソクが入ってきても、虚ろにそれを眺めているだけで騒ぎ立てたりはしない。
『悪い男』のヒロインもソナという名前でしたが、この映画の2人は紆余曲折があって連れ添うようになりますが、『うつせみ』ではテソクとソナは黙って目を合わせた瞬間に「連れ添う」事を直感する、というあたりが、監督が円熟味を増してきた部分だと思うのです。
男女が連れ添うようになるまで、をドラマにせず、一瞬、1カットで描いてしまう。
2人の間に言葉は最後までありません。そんな無言のコミュニケーションを描き出すキム・ギドク監督はやっぱり映像作家だと思うわけです。
別に言葉の説明はいらない。映像を観ればわかる。余計な言葉はいらない。目と目があって、お互いの事がわかる。
テソクは自分の家を持たずヤドカリのように空き家を探している。ソナは家があってもそこに自分の居場所はない。
自分の居場所、というものを描いた映画ですね。自分探しというよりも、自分の居場所探し。
私もいつも自分の居場所を探していたように思います。今も探している。そして居場所があってもないような、そんな不安をいつも抱えています。
今の自分で十分満足だ、何も変わって欲しくない、このままでいい、という人にはこの2人の心理は、到底理解出来ないと思うのです。
ただの不法侵入、そして女としたら浮気、それだけ、しか見えないと思います。
しかし、私には監督がスクリーンから語りかけてくれるような、そんな気分になります。「あなたの居場所は何処ですか?」と。
2人で空き家探しをするようになって、テソクとソナはソナの夫から追われる身となります。
家も色々な家がありますが、古いけれど綺麗な落ち着いた家の夫婦の所では、2人はくつろげるのです。
実際、そこに暮らす夫婦は穏和で、落ち着いた、仲の良い夫婦だというのがよくわかるシーンが後からちゃんと出て来ます。
ここも言葉ではなく、絵で見せる、ファンタジックとも言えるシーンです。ソナの住んでいた家は、家具の趣味が悪くて成金趣味です。
古くても趣味の良い家具、狭くても丁寧に手入れされている庭・・・そんな家への憧れが垣間見えます。
この映画のラストシーンは伏線が上手く出来ていて(テソクは空き家に入ると壊れている機械や家具を丁寧に直す)、1人と1人が一緒になって「0」になる。こういう映像、絵はやはり絵心のない監督には出来ない事だと思います。
日本語タイトルの『うつせみ』は、映画を観るまではピンと来なかったのですが、紫式部の源氏物語に「空蝉」という女性がいます。
空蝉だけではないのですが、源氏物語に出てくる貴族の女性達は家から外に出ることはまず、ありません。
外に出て行くのは男性です。それが日本の平安時代の風習だったのですが、まさにソナは「空蝉」のように家に閉じこめられているのを観て、なかなかのタイトルではないか、と思いました。
更夜飯店
過去持っていたホームページを移行中。 映画について書いています。
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