好きだ、
2006年3月3日 渋谷 アミューズCQNにて
(2005年:日本:104分:監督 石川寛)
2005年ニュー・モントリオール映画祭 監督賞受賞
変わってしまうことと、どうしても変わらないこと。
この二つのことが、いつまでも自分のなかでくすぶりつづけて。
このことを向き合わないと、そこから先にすすめないような気がして。
このことを、どうにかして肯定したいという思いになっていき。
その思いをたよりに、この映画をつくりはじめたのです。
これは石川監督の言葉ですが、いや~この言葉でこの映画はいいつくしているかと。
本当にそういう映画なんですね。
タイトルからすると『世界の中心で愛をさけぶ』とか『いま、会いにゆきます』と同じ路線の映画のような印象を受けてしまうかもしれませんが、これは『tokyo.sora』の石川寛監督の第2作目なので、確かに、好きだ、と言う映画であってもメリハリのある「お話」ではありません。
私は『tokyo.sora』を観た時の、その静謐な映像世界に驚いて、感動・・・・という強烈な印象が忘れられません。
実は、観る前から知っていた訳ではなくて、映画を観ながら、なんだか『tokyo.sora』みたいな・・・・って思っていたら、監督の2作目だったという・・・。
台本はあってもほとんど役者の出てくる会話にまかせて「台本は忘れてください」というような演技指導だったそうです。
だから出てくる会話は、本当に自然で饒舌ではなく、ぽつぽつとまたは訥々としています。
前半は17歳のヨースケ(瑛太)とユウ(宮崎あおい)の高校生同士の会話。川の土手がほとんどで下から映すことが多いので、空が画面のほとんどを占めるような構図。その空は青空。
ユウの家も出てきますが、台所を映すだけです。
後半は、34歳になったヨースケ(西島秀俊)とユウ(永作博美)が再会する。
都会の空は雲っていて、ヨースケの部屋は、引っ越したのに整理する時間がなくて・・・という生活感のない空っぽの空間です。
17歳の時のような開放的な画面構成ではなく、室内やスタジオ内といった部屋の中が中心となります。
ヨースケとユウは、お互いなんとなくひかれていても、「好き」という確証にはならず、言葉にならない。
そして17年たって、再会したときに、やはり歳月が壁になって「好き」または「好きだった」という言葉は出ない。
ひとことに17年・・・・といっても、もう色々な事があったはずです。お互い、社会人になり、それなりに恋愛も経験しているでしょう。
しかし変わらないもの・・・それが「好き」という気持、そしてそれを象徴しているのがユウの姉は全く変わっていない、ということ。
いつも2人はなんとなくお互いを探り合うような会話にしかならないのです。
時には、言葉にならず、口の動きだけ・・・・ということもあります。
考えてみると、会話というのはお互いを探り合うということなのではないかと思います。
一方的に自分の考えをべらべらしゃべるのは会話とはいわないのではないかと。
この映画は会話が饒舌ではない分、大切な言葉の占める大きさ、というものがクローズアップされます。
『tokyo.sora』の最後のぽつり、と出てくる言葉のように。
音楽はほとんど使われません。そのかわり、ユースケが弾くギターの曲がこの映画のキーになるという音楽の使い方をしています。
私は最近特に、空を美しく、綺麗に撮っている映像が好きなのですが、正にこの映画は空の映画。17歳の2人の間にはいつも距離があり、近づくことはなくその隙間に空が見える。
逆に34歳になった2人が狭い部屋の中でユースケがユウをおずおずと抱きしめると音楽がない分、その時の洋服のぎゅ、という音がもの凄くクリアに聞こえる。私が一番感動してしまったのは、この「ぎゅっ」っていう服の音です。
普段何気なく観ている映画というのは実は音楽がその気分を盛り立てるように意識的に流されている。
会話というのは、はっきり聞こえて当たり前、ましてや字幕があれば会話ははっきりと「読める」。
そんな「当たり前」に無意識に慣れてしまっている自分に気がつく映画。
この映画を観た日は、映画のハシゴをしてしまったのですが、一本だけぽつりと観て、そのまま何も言わずに帰りたい・・・そんな気分になる映画です。この映画のように静かにしていたいなぁ、と思います。
しかし・・・映画の中で、虎美という女の子に、加瀬亮演じる青年が近づいてきて、そしてユースケに拾われる・・・というシーンがあります。
ここもいいのですが、もし、酒に酔っぱらって道に寝ていたら、加瀬亮くんが来て、そして西島秀俊くんに拾われるなら、私はいくらでも泥酔して道路に寝ますよ・・・・ホント。
更夜飯店
過去持っていたホームページを移行中。 映画について書いています。
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