ゆれる
2006年6月23日 虎ノ門 イイノホールにて(試写会)
(2006年:日本:119分:監督 市川美和)
映画というのは編集が上手い映画ほど、その上手さに気がつかないものかもしれません。
昔からよく言われているのは「映画は総合芸術だ」という事なのですけれども、全ての観客が総合的に映画を観ている訳ではありません。
「感動作」「泣ける映画が観たい」そんな声が、最近妙に大きくて、「感動させてくれっ」という観客の渇望が大きくなっているのが最近気になるのですけれども。だから宣伝も「感動」と「泣ける」を全面に持ってきます。
しかし感動や泣けるの前に無意識についているのが「わかりやすく・・・」というもの。
感動=泣ける、という単純な図式、または、自分は受け身で楽して感動させてくれっとは私は思わないのですが、どうも世間は「(わかりやすい)感動」が大好き、大流行です。
それで、わかりやすい映画というのは、編集、つまりシーンのつなぎ、話の飛ばし方、構成の力がとても重要になってくると思います。
映画というものの基本は編集と思うくらい、私は編集を大事にしています。だから私は編集をじっくり観てしまいます。
この『ゆれる』という映画は、何よりも「編集が上手いっ」とうなった映画でした。
しかし、この映画は、わかりやすいというよりも人間の複雑さを深く描き、可哀想・・・と涙を流すような話、シーンはありません。
むしろ、人間の深い心理の底の見えない暗闇を上からのぞきこむような心持になる映画です。
どうしようもない溝を持っている兄弟が、一つの事件から、ぐらぐらとゆれていく心理を流れるようなシーンのつなぎ方で、見せてくれるのがこの映画。流れるようにつながっているから、どんな事も納得のいく描写となりうるのです。
『蛇イチゴ』で、口八丁手八丁な兄と真面目一本槍の仲の悪い兄妹を描いた市川美和監督ですが、長編2作目もオリジナル脚本で、描くのは同じく血のつながった兄弟なのに違う、という事です。
地元で、嫁ももらわず実家のガソリンスタンドを継いだ兄、稔(香川照之)
東京で、カメラマンとして成功した弟、猛(オダギリジョー)
母の一周忌で弟が、田舎に帰省するところから映画は始まります。
穏和で、人づきあいも良く、父を助けて、家事も仕事も真面目にこなしている地味な兄。
人気カメラマンという華々しい世界で、ブイブイ言っている弟。地元に戻れば「東京での成功者」という賞賛の目で見られる。
ただ父(伊武雅刀)は、家を捨てて自分勝手にしている弟には批判的。その間に入って、まぁまぁ、となだめる兄。
弟の幼なじみの智恵子(真木よう子)は、今は兄のガソリンスタンドで働いている事から、久しぶりに出合った3人は、渓谷に遊びに行こうという事になる。しかし、智恵子は、弟、猛とつきあっていた過去があり、智恵子は東京に行きたい、猛について行きたい、と迫る。
女性に不器用な兄と器用な弟。猛は智恵子とは、遊びでしかない。東京についてきて欲しくなんかないのです。
渓谷には古い吊り橋がかかっている。兄は高い所が苦手。しかし、先に吊り橋を渡った猛を追って、智恵子が橋を渡ろうとすると兄、稔が追いかけてきて・・・・智恵子は、吊り橋から転落して死んでしまう。
最初は転落事故となるけれど、兄、稔があれは私が突き落としたのです、と警察に自白してしまう。
弟は、伯父(蟹江敬三)に頼んで弁護をしてもらいなんとか無実、事故だった、という方に裁判を持っていこうとしますが、ここで、穏和な兄、優しい兄であるはずの稔の長年の苦しみ、コンプレックス、弟への恨みが爆発する。
違う兄弟の間にはどうしようもない溝があるのですが、東京へ「逃げてしまった」弟はそんな溝に気がつかない。
お互い、大人になり、たまに会えば優しいにいちゃん、それだけの都合のいい存在なのです。
そんな弟を自分を殺して、黙認してきた兄の鬱屈した思いが爆発する。
香川照之とオダギリジョーの対話のシーンの緊迫感。兄の自分への思いが屈折、鬱屈したものであることに驚き、怒りを感じる勝手な弟。
それは兄が言うように、「無実にしたいのは、自分が犯罪者の身内になりたくないだけだろう」という弟の本音を、暴露してしまうから。
それが本当の事であっても、自分に都合悪い事を指摘されていい気持になる人はあまりいないでしょう。しかも他人ではなく、血のつながった兄から、意外な指摘を受けて動揺して、それが怒りに直結してしまうという心理。
裁判は二転三転して、本当はどうだったのか、証拠は・・・ということで、吊り橋の下から事の成り行きを見ていた弟の証言になる。
兄と弟の溝には一本の橋、古い壊れそうな、あやうい橋がかかっていて、それがゆれる。兄は、実直だけれどもかといって不動の人ではない。やはり、弟へのコンプレックスに密かに悩み、自分を責めては慰め、どうにか狭い地域社会で暮らしている。
弟だって、東京で成功するにはそれなりの苦労があったはずですが、自分の事しか考えられない。捨ててきた過去には何の疑問を持っていない。兄弟だから・・・なんていう綺麗事ですまない、ぶれ、があるのです。
兄を演じた香川照之は、本当に普通の無難な人、に見えて、どんどん自分の本当の気持を弟にぶつけていく、その様子が、劇的ではなく、時に優しく、時に激しく、時に情けなく・・・・背中を丸めて洗濯物をたたむ後姿だけで、そのひととなりを見せる演技。
弟を演じたオダギリジョーは、自己中心的で、過去はどんどん切り捨てていくという非情な事をしていても気がつかない、という無神経な一面を時折見せる。そして本当の事に気がついてももう、遅いのです。
しかし、そんな遅い認知をこの映画は責めて、追いつめたりはしないし、放り出しもしない。ちゃんと遅かったら、遅かったなりにどうするのか、という事も描き出す。
ラスト近くになって、弟、猛は「あの橋は今でもかかっているのだろうか」とつぶやく。
兄をずっと突き落とし続けてきた弟、兄から奪ってばかりだった弟。それでも文句を言わなかった兄。しっかりとした家族の絆=橋だと思っていたものは、渓谷の吊り橋のように古く、穴だらけの、もろい橋でした。
この2人の他に、父と伯父も仲が悪い兄弟であるとか、ガソリンスタンドのバイト、新井浩文の不動の誠実さ、検事の木村祐一の容疑者を追いつめていく厳しさ・・・脇の人も良かったです。
家族だから、なんでも許されるというのは、もう家族神話、または都合のいい妄想です。家族だからこそ困る事だってある。
そんな人間のつながりのあやうさを、ゆれる橋をモチーフにして、人間の痛みを描いてそれをずっしりとした感動に昇華させる市川美和監督の脚本もとても完成度が高いものだと思います。
更夜飯店
過去持っていたホームページを移行中。 映画について書いています。
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