家の鍵

家の鍵

Le Chiavidi Casa

2006年6月12日 神保町 岩波ホールにて

(2004年:イタリア:111分:監督 ジャンニ・アメリオ)

わかりやすい映画、というのは、大体説明で始まり、説明で終ります。

起承転結、きっちりとさせ、かつ映画の主張はこうこうです、と観客に説明する。

それは台詞であったり、映像であったりするのですが、この映画は、最初と最後の説明を描かない。

冒頭、2人の男性の会話で始まりますが、一体何が起きるのか、何のことを言っているのかはっきりとはわからない。

わかるのは、1人はパオロという少年を育てている伯父であり、1人は実の父親らしいくらい。

そして、若い男性ジャンニ(キム・ロッシ・スチュアート)が、15歳の身体に障がいを持つ男の子、パウロ(アンドレア・ロッシ)をドイツの病院に連れて行く列車の中になる。

そしてジャンニは、パオロの実の父親であるけれど、産まれた時に手放し、会うのは実に15年ぶりだということがわかります。

まだ、30代ともいえる若いジャンニは、自分の家庭、妻と産まれたばかりの子供がいる。

慣れない手つきで、パオロの身の回りの世話をしようとするジャンニ。人なつこくて、冗談をいつも言っているパオロですが、時々癇癪を起こすけれど、すぐにもとに戻るのです。

このパオロが、ちょっとキィっと怒るけれど、さっとすぐに戻る・・・というのが、多分私には出来ないでしょう。

私だったら気分悪くなったら、しばらくはむすっとしてしまうけれど、パオロはけろっと人なつこくなれる。それは生まれながらに障がいを持っている少年の処世術なんだろうな・・・・なんて思います。

ただでさえ、人の手がないと生活できないのに自分が、自分が・・・とばかり言っていたら嫌われてしまう、社会生活が出来ないというあきらめを受け入れてしまっているという痛々しさが、時々、鋭くあらわれます。

表情が豊かで、愛嬌があって、弱音をはかない、パオロという少年は、映される角度によって驚くほど顔つきが違います。

複雑な心理が演技とは思えないほど自然に表情に出ています。

そして、ドイツの病院で検査を受けるパオロですが、ジャンニはどうも落ち着かない。それは、若いときの恋人を妊娠させてしまい、出産で恋人は死に、産まれた子供は障がいを持っている・・・ということから逃げ出してしまった過去の過ちが、15歳に成長したパオロという姿になって目の前にいつもあるからなのです。

病院で知り合った重度の障がいを持つ女性の母、ニコール(シャーロット・ランプリング)は、ジャンニの姿、様子を見て、そんな不自然な関係をすぐに見抜いてしまうけれど、ジャンニの良き相談者となる。

ジャンニは時には本当にどうしていいかわからない、ほとほと困ってしまうのですが、ニコールの支えによってパオロの存在が、自分の中で変わっていくのを知る。

シャーロット・ランプリングは、本当に聡明さを失わない、美しい人。それは若くて綺麗、なのではなくて内側から発せられる美しさ。

映画はジャンニとパオロの2人を焦点にしぼっていますが、この2人が近づくのを助けるのは、ニコールという1人の母親の存在です。

「一緒にいるということは、苦しむのを覚悟しなければならないということよ」とジャンニにさらりというニコールは、その苦しみのさなかにある人なのです。疲れ切ってしまったジャンニが、どうしてあなたは、いつもそう穏やかなのか・・・と聞くとニコールは笑顔で答える。

「パオロは病気に守られている。子供にとって問題なのは、病気ではない、親なのよ」と障がいに対峙している強さとつらさを同時に見せる。

若いときの過ちの罪を贖う気持と父として自覚が持てない様子、そして父は死んだと聞かされていても、パオロは、ジャンニが父であることを知っている。でも、それを問いつめないし、ジャンニを責め立てて追いつめたりしない。

ドイツからノルウェイに旅をすることになって、近づいたり、離れたりを繰り返す2人。

この2人はこれからどうするのか・・・映画はそこまで描かず、海辺にたたずむ2人を綺麗に映す。

罪の意識、贖罪、赦し・・・・そんなものを映像というより空気に乗せて、スクリーンから風を送り、声高なメッセージはあえて残さない、そんなラストの広がり方が好きです。

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更夜飯店

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