花よりもなほ
2006年6月4日 TOHOシネマズ市川コルトンプラザにて
(2005年:日本:127分:監督 是枝裕和)
『幻の光』から、『ディスタンス』『誰も知らない』など、ドキュメンタリーの手法で、社会的な内容の映画を作る、または、小さな静かな映画を作るというイメージの是枝監督の5作目は、落語のような群像時代劇。
でも、この映画は冬に始まって冬に終わる春夏秋冬を追って、映画が進むというのは、きちんとした是枝監督の世界だし、描かれる群像も、貧しくて弱い、または、強がっていても弱い、という人々。
主人公の青木宗左衛門(岡田准一)からして、一応、武士で、父の仇討ちという事の為に信州松本から江戸の長屋に潜伏していても、実に弱い。
主に長屋では、算術や手習いを教えていて、武術を教えてやってといわれても、武士嫌いの男、そで吉(加瀬亮)にこてんぱんにやられてしまう。国に戻れば、兄とは違って弟(勝地涼)は、道場を切り盛りして、仇討ちが出来ない兄に怒る。「兄上には、父上の墓参りをする資格などない」と言われても、宗左衛門は、文句も言わないし、反論もしないし、やり返そうともしない。
父の仇と言ってもなぁ~喧嘩して斬られてではなぁ~時代は元禄なので、もう戦いのない時代。武士なんて必要ない時代かもしれません。
むしろ、長屋の人々の方が、元気ある、という描き方で、こちらの方を強調しています。
だから、この映画は時代劇であっても胸のすくようなチャンバラや合戦のシーンはなく、長屋落語の世界なのです。
精進して、成長して、見事、仇討ちを果たす・・・というシーンはありません。
戦いたくないのに、周りが戦え、戦えとせかすのに、ううん・・・・と戸惑っている宗左衛門は、どちらかというと現代の若者みたい。
セットや美術は、時代劇映画のベテランを揃えたりしていて、長屋のセットなんてとても細かいのに、描いている世界は、「ううん・・・なんだかなぁ」という惑いの世界。
この映画の背景のひとつに、赤穂浪士の討ち入りという物語があって、タイトルも浅野内匠頭の辞世の句からです。
風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせむ
そして長屋の中にも仇討ちの機をはかっている浪士たち(遠藤憲一他)がいます。
しかし、この映画で強調される人物はいわゆる赤穂浪士の面々ではなくて、寺島進演じる寺坂吉右衛門。
赤穂浪士の中で、討ち入りから、逃げ出した人がいる、という話は知っていたのですが、私が聞いていたのは、「大石内蔵助の命を受けて、この仇討ちを後世まで語り継いだ人」です。それが寺坂吉右衛門という人です。
映画は、仇討ち=戦い、仕返しとは何か、という疑問をストレートに出してきます。
仇討ち成就すれば、百両はもらえる・・・そんな事実も出てきます。仇討ち(仕返し)=金儲け。
ここら辺、過去の戦争とか、今の戦争を思うと、とても現代的なものを持っていると気がつきます。
宗左衛門は、仇(浅野忠信)を見つけても、どうしても仇討ちはできない。
寺坂吉右衛門も、仇討ちには疑問をもっていく。
赤穂浪士の討ち入りのシーンも出てきますが、「結局、寝込みを襲うのかよ」っていう台詞は、完全に落語のとらえ方で、笑ってしまいました。
武士なら、もののふならば、花(桜)のように潔く散るのだ、というよりも、宗左衛門は、「花は来年も咲く為にこんなに咲いているのだな」と納得する。宗左衛門は江戸で、成長するというより、変わっていくのです。
ストレートな映画ではなく、むしろ逆説的な映画だと思います。
もちろん、長屋の人々、古田新太などの怪演もいいのですが、見事に派手な事件を避けている脚本。
昔だったら、テレビドラマだったらあり得ない独特の世界ですが、この映画が公開されている今(2006年6月)はドイツで、サッカー、ワールドカップが開催され、日本代表のネーミングは「SAMURAI BLUE」・・・・・私は、どひぇ~~~~ワールドカップとかオリンピックになると臆面もなく出てくる、サムライだとか大和魂だとか、撫子ジャパンだとか、もう恥ずかしい~飛行機にば~んって書いてしまうセンスを疑う・・・と、本当にうさんくさく思っているし、親しみからくる愛称にしては、ただ勝つ、負けるの世界になると武士を持ってくるのか・・・という安さを感じて、うそ寒いものを感じますね。
それは日本だけではなくて、ドイツだと「ゲルマン民族が~」とか歌ってしまう。集団心理って怖いですなぁ。
そういう時期にこういうアンチ・サムライみたいな映画が公開されるって、いいなぁ、私はこっちの方が納得するなぁという作り込みの上手さ、かわしかたの上手さに粋を感じます。
武士というものは、強いものだ、勝つものだ・・・そんな逆をいくというか、関係ない所にある『アンチ・サムライ』なんですね。
更夜飯店
過去持っていたホームページを移行中。 映画について書いています。
0コメント