ビッグ・リバー

ビッグ・リバー

Big River

2006年7月1日 テアトル新宿にて

(2006年:日本:105分:監督 船橋淳)

 ロードムービーと子供ものの映画は、プロデューサーが嫌う・・・という事をどこかで読んだ事があります。

この映画は、まさにロードムービー。ロードムービー以外何物でもないくらい堂々としたロードムービー。

アメリカのモニュメント・バレーの砂漠で、1人ヒッチハイクしている日本人の男、テッペイ(オダギリジョー)。たまたま車が故障して困っているパキスタン人の男、アリの車に乗せてもらう。そして、今度はガス欠で、出合うのがアメリカ人の女性、サラ。

 ロードムービーというのは、車の場合は、車中の会話が多くなり、なかなか映画が派手に動いてくれないのを、じっと見つめることになるので、娯楽としてはなかなか成り立ちにくいのです。

しかもこの映画では、かわりゆく外の風景は、ずっと砂漠です。壮大な風景ではありますけれど、下手すると単調にもなりがちで、そうなると登場人物たちがどれだけ深く描かれるか・・・という事が、メインになる訳です。

 しかし、この映画は、出てくる3人のバックグラウンド、背負うものはほとんど語られません。

国籍の違う3人のぶつかりあい、というのもあまり描かれない。

オダギリジョーは全編、台詞は英語で、流暢な英語を話します。しかし、世界を旅しているという設定の青年・・・の割には、「アメリカでアメリカ人やってる日本人」という感じですね。

身振り手振りがすっかりアメリカンなんです。世界をこのアメリカンの身振り手振りで通すのか?

私は、英語を話そうと努力していても、どうしても頭をぺこぺこ下げてしまったり、笑う時に手を口にもっていったり、といった日本人の動作って直らないもんだなぁ、と常々思っているのです。

 もしかしたらテッペイは、帰国子女で外国生まれ、外国生活の方が長いのか?と思いました。そういう人はもう、動作は日本人離れしていて当然かもしれませんが、この映画では、そういう設定も語られず、それでは「日本人である」ということが大前提になるのでは?

外国語を操る日本人が上手いな、と思ったのは、中国か台湾の映画に出たイッセー・尾形。

日本人商社マンという役でしたが、流暢ではないけれどきちんとした英語を話し、たたずまい全体から「日本人」の空気が出ているのに感心した事があります。だから最初は何を考えているのかわからない存在なのですが、次第に人柄がわかって分かり合うという流れだったと思います。言葉は通じても、何をどう感じているのか、考えているのかまでは、いきなりはわからないと思うのです。

その辺、この映画は、最初から何でも通じ合ってしまっている、という、妙な違和感を感じます。

特にテッペイとサラの自然すぎる近づき方は、この映画に限っては、違和感にしかとれません。

 そしてアメリカ人であるはずのサラは、見た目は白人金髪ですが、なんとも自分の意見をはっきり言わない日本人のよう。

好きになったテッペイに、言いたい事をはっきり言えず、遠くから見つめる・・・そんな描写になっています。

そして、唯一、アメリカに妻を捜しにパキスタンからやってきたという設定を持っているアリも、そこまでして執拗に追ってきた割にはあっさりしていて、国籍が違うが故の物語、まではいっていません。

 この映画は、かなり1シーンが長く、長回しの映画です。とてもじっくりしています。

オダギリジョー、かっこいい~だけの映画ではないのです。

じっくりした映画は好きなのですが、何を描きたいのかはっきりしないまま、映画が進み、多分、ラストのテッペイの起こした行動に焦点をあてているのでしょうが、それに至る過程をどうしようか、と試行錯誤しているような感じがしました。

過去のロードムービーの名作と言われるものは、旅していく内に変化していくもの、または、変わらないものに対して、きちんとしたヴィジョンを持ち、それを打ち出してくるものが多いのです。その点、この映画はあくまで写真的にとどまっています。

 何も理詰めで説明して、納得させろ、とは思わないのですが、あまりに不自然でも困る。自然に見せようと努力している映画ですから。

でもこういう映画を作ろう、そして作ることが出来たのは、日本映画の中では大きな意味を持つのではないかと思います。

外国で映画を撮ろうとすると、「イメージ」にとらわれる事が多いのにこの映画は、正直に砂漠のむなしさ、乾いた空気を出してくる。本当にこういう殺伐とした水のない風景なんだろうな、と思わせる空気を写真的に映し出すことに成功していてそれはそれで興味深いものがあります。 

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