ピロスマニ

ピロスマニ

Pirosmani

2006年8月10日 千石 三百人劇場にて(ソビエト映画回顧展06)

(1969年:グルジア:87分:監督 ゲオルギー・シェンゲラーヤ)

 私が学生の時、映画のスケジュールは「ぴあ」ではなく「シティ・ロード」を見ていました。

映画紹介の文章は誰が書いていたのか、わからないけれど読み物として面白かったですね。

『フルメタル・ジャケット』では「もう、他の映画はいらない。この一本だけあればいい」とか堂々と書かれていました。

そこで絶賛されていたのが、当時、岩波ホールで公開されたこの映画で、ずっと観たいと思いながらも、見逃していた映画です。

 私の中では観たい映画であった事は確かですが、ピロスマニ、とは何だ?とか、ピロシキを連想したりしていたのです。

映画を観ると、グルジアの画家、ニコラ・ピロスマニの映画でした。

動物の絵が有名ですが、特徴は人間でも動物でも、体は横向きでも「顔はいつでも正面を向いている」

絵を観る人を、見つめ返すような、動物、人間。

媚びる事なく、じっと見つめ返す動物たちは、孤独だったピロスマニという人、そのもののような静けさと寂しさと強さを感じさせます。

決して、繊細とはいいがたい大胆な筆使いですが、青が主体の寒色を背景にして立つ動物たちは、見る者を圧倒する何かがあります。

映画を観た後、ピロスマニの絵を見てみたのですが、映画の各シーンが、ピロスマニの絵、そのものなのです。

例えば、結婚式のシーンがありますが、ピロスマニが描いた通りの構図、人物配置になっていました。テーブルの下に何故か、料理されたブタが丸々一頭ごろんと上向きになって転がっていたりしますが、これも絵の通り。

そして、映画は、同じ構図で時間が経ったあとの風景もきちんと見せています。

 孤高の天才・・・と呼ばれる芸術家というのがいます。

例えば、『アダン』で描かれた田中一村なども、奄美大島にこもり、絵を発表することなく自給自足の生活をしながらひたすら絵を描き続けるという孤独か、絵か、といった究極の選択をした人。ニコラ・ピロスマニもそういう人でした。

 居酒屋や店の看板を描きながら暮らし、モスクワの画壇からも一時的に認められてもすぐに失脚、また放浪生活を始めるピロスマニ。

そこには私利私欲がなくて、最初、乳製品の店をやろうとするのですが、商売には向いていないのですね。もう、嫌になってしまって、子供に手を出せ・・・と言って、その手にハチミツをどば~っと流すシーンなどにその心境がよく出ていました。

とても静か、静謐な映画ではありますが、真面目で固いシーンばかりかというと、ちょっと抜けたようなこういうユーモアの垣間見えるシーンもあります。

 ピロスマニの絵は額にいれて美術館に飾るよりも、居酒屋の壁に飾ってあるほうがしっくりきます。

多分、ピロスマニもそれがわかっていたと思うのです。そしてこの映画は、そういうことがよくわかっていて、絵画を見事に映画にし、その清廉な精神を見事に描き出している映画でした。

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