炎のアンダルシア

炎のアンダルシア

Al Massir

2006年8月4日 日比谷 シャンテ・シネにて(BOW30映画祭)

(1997年:エジプト=フランス:135分:監督 ユーセフ・シャヒーン)

1997年 カンヌ国際映画祭 第50回記念特別賞受賞

 私は人を退屈させることが嫌いなんです。何でも速くすすめなきゃ、というのが私のリズムです。私は話すのも速ければ、泣くのも速いし、踊り出すのも速い。

 誰にでもわかってもらえる映画を作ろうと思って苦労していますよ。今度は義母のために映画を作ろうなんてバカげているでしょう。義母はどうせ褒めるに決まっているんだから。

 どこでも、誰にでも、わかってもらいたいと思っていますよ。民族色だけの映画なんて私には興味がないし、娯楽のためだけの映画も興味がない。言うことが何もない映画なんて誰が作るのです?それならハシシでも売ってたほうがましでしょう。

 意に沿わない映画を作るのだったら、ハシシを売ったほうがまし、と語るユーセフ・シャヒーン監督です。

もう、この監督のインタビューは大変、ユーモアと知性に満ちていて全文書いてしまいたいくらいなのですが、あと私が好きな話は、黒のタキシード姿が当たり前のカンヌ映画祭に、白いタキシードで監督が現れた、という話ですね。いいなぁ、知性とユーモアと粋な人。

 この映画は、エジプト映画なのですが、舞台はスペインのアンダルシアです。

何故アンダルシア?それはこの映画の舞台の12世紀の頃はまだ、スペインという国はなくアンダルシアというイスラム国家だったのですね。

首都はコルドバです。

だから、冒頭、映画はフランスでの哲学者の焚書と火あぶりの刑から始まって、その息子がアンダルシアに逃げてくる・・・という話もそうそう無理ではない設定なのです。原題は「運命」という意味だそうですが、日本でタイトルをつけるにあたって、監督承認のもと『炎のアンダルシア』となりました。炎というのは、宗教弾圧で哲学書などが、どんどん焚書になる、そんな「思想を燃やす炎」なのです。

 この映画のラストには「思想には翼がある。その羽ばたきは誰にも止められない」という字幕がでますが、この映画は、哲学、宗教、政治、恋愛、友情、尊敬・・・色々な要素がつまっている娯楽音楽哲学宗教政治映画なのですが、思想・・・つまり思うこと、想うこと・・・には翼がある、というメッセージが必ず貫かれています。

歌や踊りといった娯楽的な楽しいシーンにも、政治論議の場でも、イスラム原理主義者たちが集まる所でも、主人公であるコルドバの哲学者、アベロエスの言葉にも、また、料理の上手いその妻の料理にも、それぞれの思想が貫かれています。

 思想弾圧がひどくなって、哲学者アベロエスの本が弾圧されそうになると、弟子たちは必死になって本を書き写し、それを海外に持ち出そうとする。フランスから逃げてきて受け入れられた青年、ジョゼフのエピソードで、山を越え、河をこえ、兵隊から逃げ回り、やっとフランスに持っていった師匠の本。そうたくさんは持てないけれど、届いたのは一冊だけ。それを開くと・・・文字はもう水で濡れて判読できない。しかし、それを受け取った哲学者は、ページをめくるのをやめようとはしない・・・という描写には涙が出ました。こんなにまでして守ろうとした、逃そうとしたものが、無駄だった・・・でもそれを無駄にしようとはしない人。その崇拝の気持がよく出ている素晴らしいシーンでした。

 他にも色々な人のたくさんのエピソードがつまっているのですが、最後、とうとうアベロエスの本がコルドバの広場に集められ、焚書されるのを、追放されたアベロエス一家の馬車が通る。カリフ(君主)の息子は、エジプトへ本を逃した事が成功した、と告げる。

それを聞いたアベロエスは、微笑みながら、自分の本を一冊取り出し、その本を焚書の焚火の中に自ら放り投げる。

思想は縛られない。一冊の本は思想の容れ物にすぎない・・・そんな強い意志が、微笑みとなって現れている。

 ユーモアを忘れないけれど、その奥にはとてつもない知性と深い洞察力と意志の強さが見える、そんな監督の姿がこの一本の映画からはひしひしと感じられます。

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