母たちの村

母たちの村

Moolaade

2006年8月3日 神保町 岩波ホールにて

(2004年:フランス=セネガル:124分:監督 ウスマン・センベーヌ)

第57回 カンヌ国際映画祭 ある視点部門 グランプリ受賞

 ウスマン・センベーヌ監督は「アフリカ映画の父」と言われているそうですが、悲しいことに日本ではなかなか公開されません。

私は初めてセンベーヌ監督の映画を観ました。

 これは西アフリカのある村の物語。

カメラは一度も村を出ません。外から入ってくる人も、フランスから戻ったという村長の息子と、生活用品から食べ物までを売りにくる商売人の男だけです。

とても狭い世界なのでした。

狭い世界には因襲がたくさんあります。それはその因襲の映画でもあると思います。

まずは、一夫多妻制。主人公である、コレという女性は第二夫人。第一夫人と第三夫人と一緒に暮らしている。

そして、女の子が必ず受けなければならないという、割礼の儀式。これは直接的には描かれないのですが、少女の陰部に手術をする。

しかし、そのせいで命を落とす少女達も絶えないのですが、儀式を受けない女の子は女性ではない、結婚は許されないという因襲があります。何故、こんなことをするのか、というとイスラム教の村で、イスラムの教えだからだ、とだけの不条理な理由で「昔からの決まりだから」で行われている。男性たちは(自分たちには関係ないし)割礼に対して疑問を持っていない。

完全に男性社会、家長制度が厳しい村。

もう、ひとつは、原題でもある、「モーラーデ」

これは、保護という事なのですが、助けを求めて保護を求めてきた者を拒んではいけない、という風習。

 この映画は、割礼を嫌がって、怖がってコレの所に少女4人が、モーラーデを求めてきた事から発する事件。

割礼の因襲も絶対だけれども、保護されている者に手出しすることも禁止されているという因襲対決。

 コレは長女と次女を割礼で死なせている。だから、三女は割礼を受けさせなかった・・・という意志を持っています。

男性達は、割礼しない女は女じゃない、と言いますが、子供がどんどん死んでしまうのを黙って受け入れなければならない母たちの鬱屈した気持が、このことから爆発する。

 アフリカの村の人々の生活を丁寧に描写して、色鮮やかな衣装、生活用品なども大変美しく撮っています。

外からやってくる、商売人の男は、「外の世界を知っている男」であり、息苦しいような村に、生活用品などの他に、ユーモアと笑いの風を持ってくる唯一の人物。

なんでも売っている訳ですが、カミソリが糸でぶらさがっている横に、女性のブラジャーが堂々と下げられている。固くなってしまったパンを高い値段で売る。

 さて、モーラーデというのは、保護者が保護を辞める・・・と言わない限り、その効力を発揮する。

何がおきても、何をされても、モーラーデを辞める、と言わないコレ。

女性たちの外を知る機会は、ラジオです。しかし、ラジオで、イスラム教では、女子の割礼なんて強制していない、とコレは言う。

そうすると、村長たちは女達から全てのラジオを取り上げ、燃やしてしまう。

女たちに変な知恵がついてしまうのを恐れて、暴力的な行動に出る男達。そして、自分の経験から、また、自分の子供たちの事を思って、割礼を辞めさせる集団行動に出る、村の女達。

 監督は悪しき因襲として割礼、そして良い因襲としてモーラーデを出して、すべての因襲が悪いわけではない、という事を冷静に語っています。そして、ただただ因襲に流されている、それは、ダメだ、これでは、ダメだという監督の静かな主張がずっと流れています。

 女性たちはよく働く。特に水くみなどで頭の上に壺を乗せて歩くので、女性は皆、姿勢がとてもいい。

とても美しい姿をしています。これも、ひとつの因襲なのでしょう。

普通だ、当たり前だ、と疑問を感じない事に、ひとつひとつ考えてみる事の大事さを静かに主張し、力強い映画にしています。

アフリカだからの物語ではなく、どこにも誰にも因襲はある、それについての映画、ということでどこの国の人が観ても考えさせられる映画となっています。 

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