芙蓉鎮
芙蓉鎮/Hibiscuss Town
2006年9月8日 千石 三百人劇場にて(中国映画の全貌2006)
(1987年:中国:165分:監督 謝晋)
私が中国映画で、一番に思うのは、やはり『芙蓉鎮』です。
過去の中国映画の全貌シリーズでも、いつでも必ず上映されている名作。
また、文化大革命を描いた中国映画の中でも特にインパクトが強い一本。
そして、映画の中で、ドラマ、ドラマチックといえばこの映画に並ぶ映画はそうそうありません。
やはり、厳しい時代を生き抜くという事を、「ドラマ」にして、つまりお話として、観客に観せる力が特に優れています。
165分という長さを全く感じさせない、緊張感の連続。様々な人間模様。美しい石畳の風景。そして役者たちの魅力。
監督は第三世代の代表的な監督、謝晋です。
1963年、芙蓉鎮、という架空の街。そこで、若い夫婦が米豆腐屋の露店を開いている。胡玉音という若い奥さんは、豆腐の上手さだけでなく、その可愛らしさと愛嬌で、大人気。お金が儲かって、家を新築することも出来る。
しかし、それを妬ましく見ているのが、向かいの国営食堂の女店主、李国香。
客の中には、昔、胡玉音の恋人だった男、米の配給を任せられている男、地主のダメ男・・・・そして、もうすでに革命の予感は、満ちていて、地主だった者、また芸術関係者などは「右派」として、街で虐げられている・・・・そんな中で、特に迫害を受けているのが、作曲家だったという秦(チアン・ウェン)です。ウスノロ秦、と蔑まれているけれども、物語は、胡玉音と秦の2人のドラマにしぼられていきます。
文化大革命によって、李国香や地主の王は、飛躍的に優位な立場となり、こつこつと商売を続けてお金を貯めた、胡玉音は夫を殺され、財産は没収、また’新富農’というレッテルを貼られ、迫害のターゲットにされてしまう。
秦と胡玉音は、見せしめとして毎朝、芙蓉鎮の街の道路掃除を言い渡される。失意のどん底にある胡玉音に、優しく声をかけて励ます秦。
今回、再見して、興味深かったのはわかりやすい胡玉音と秦ではなくて、立場が上がったり下がったりの激動を繰り返す、李国香と王です。
この2人はこの映画の「悪役」なのですが、その悪役ぶりがあまりにも見事。特に、李国香を演じた女優さん、徐松子の憎たらしい演技の上手さですね。李国香は、政治工作班長になって、ぶいぶい言うかと思うと、赤衛兵たちには、逆に迫害されてひどい目いにあっても、また復活するのです。うーん。今回の全貌2006で観た『ニーハオ 鄧小平』の鄧小平氏のように失脚、復帰を繰り返すという凄い人なのでした。この人いなければ、ヒロイン、胡玉音と秦の物語は、くっきりと浮かび上がらない。
また、胡玉音を見つめながらも、何もすることのできない元恋人、黎の存在や、密かに米の配給だけでなく何かと手助けをする谷といった、悪役でも善玉でもない中間の役の配置の上手さ。
さて、胡玉音と秦は、ひたすら、四季の風景の中、竹箒で道路掃除をする。最初は、秦を拒絶していた胡玉音も、だんだんその優しさと強さに惹かれていくようになり、2人は結ばれ、妊娠する。そして結婚をしよう・・・ということになるのですが、そんなこと、李国香は許す訳ないのです。
ここで雨の中、2人は立たされ見せしめになりますが、秦は胡玉音に「豚になっても生き抜け。牛馬になっても生き抜け」と言います。
絶対に死ぬな、何があっても死ぬな・・・この秦の強さが、この映画の最大の魅力なんですね。
それまでが、あまりにもつらい環境をえんえんと見せてきて、さらにもっと酷い事になる。しかも胡玉音は、妊婦。絶望の淵に立たされた時、この秦の言葉がものすごくインパクトあるのを覚えていましたが、今回もやはりこのシーンのインパクトの大きさといったら。
今では国際的な俳優、監督として有名なチアン・ウェンはこの時、まだ新人で若いのですが、秦という役は、そのキャリアの中で大きな役だったと思います。
そして1979年、文革は終わる。胡玉音や秦、他の人々はどうなったのか。
この映画を観た時の衝撃は忘れられません。中国映画の力の強さをこれほど感じた事はなく、私はどんどん中国映画を観る動機となった貴重な映画です。
今年でもって、三百人劇場の全貌シリーズは終了する、ということで、最後の最後は、この『芙蓉鎮』を観る事にしました。
私の中では、とても大きな存在を占めている映画です。それは、これから先変わることはないでしょう。
更夜飯店
過去持っていたホームページを移行中。 映画について書いています。
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