カポーティ

カポーティ

Capote

2006年10月5日 日比谷シャンテシネにて

(2005年:アメリカ:114分:監督 ベネット・ミラー)

 『アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶』という映画で、写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンが撮ったカポーティの写真があります。

まだ、少年ともいえる男の子が白いTシャツを着てベンチに座っているのですが、その表情は「不安そのもの」

疑り深いような目でじっとカメラを凝視している姿・・・この映画を観るとカポーティはもう中年になっていますが、その不安な表情は変わっていないと改めて、ブレッソンの目の高さに驚いたりしました。

 この映画はトルーマン・カポーティがノンフィクションノベルの草分け的存在となった本、『冷血』を執筆した過程を描いたものです。

もちろん、ベースとなる『冷血』を読んでいた方が説明を省けると思いますが、この映画では、『冷血』裏話だけを描いたものではない、人間の中に流れる冷たい血というものを浮き彫りにしているように思います。

 カポーティを演じたフィリップ・シーモア・ホフマンがアメリカアカデミー賞の主演男優賞を受賞したことで、まず話題になりました。

何よりも特徴的なのは、その声。甲高くて、なんともペタペタとした子供のような声でずっとしゃべるカポーティの声。

フィリップ・シーモア・ホフマンの声ってこういう声ではなかったはずですが・・・とその役への入り込みがすごいです。

 1959年カンザスで起きた一家4人の殺害事件。その事件に目をつけたカポーティは、5年の歳月をかけ、取材し、犯人のひとり、ペリー・スミスとは文通をするまで事件に近づいて・・・そしてそれをノンフィクションではなく、小説、ノベルのような書き方で書き上げた著作。

 しかし、カポーティは早くから同性愛者と公表し、社交界に出入りし・・・高慢で、気まぐれで、執着質で、いつでも酒が手放せず・・・それは、最初の取材で、いきなり「これ、上等なマフラー」と自分の服をぺろり、と自慢する1シーンでわかってしまう人柄。

嫌味なほど、お洒落で、それを見せびらかす事に喜びを見出している虚栄心。

そんなカポーティは賄賂を使ってつかまった犯人、ペリーと特別に面会する許可をもらい、話を聞く。ペリーには弁護士をつける・・・・それをペリーは「友情」「親友」などと言うけれど、カポーティにとっては、すべてが自分の小説を書き上げる為です。

甘ったるいわかりやすい「親しみ」や「同情」などそこには存在しないのです。

不幸な子供時代だった、という点では、似ている2人ですが、片やカポーティは若くして天才作家という立場になってしまっています。

 親友、友人、知人、知り合い・・・・さて、どこまでつきあえば、「友人」なのか・・・なんて事を、特にネットをするようになって考えてしまうのですが、ただ、「顔を知っている」「話をしたことがある」くらいで「友人」とは言えないけれど、では、何をしたら「友人」となるのか。

この映画では、カポーティはペリーが死刑判決を受けてから・・・・が苦しみの始まりです。

死刑判決はでても、なかなか死刑は実行されず、延び延びになる。それは『冷血』の中でもしつこいほど書かれていることなのですが、カポーティとしては、執筆が停滞してしまい、曖昧なままでは、書く事ができず、どんどん焦りが生じる。

ペリーとは長い「つきあい」でペリーは完全にカポーティは自分の味方で助けてくれる・・・と勘違いしている。それがわかっていて、親友の仮面をかぶり続けることになるカポーティ。

 小説のタイトルが『冷血』である、と決めたものの、ペリーには話せない・・・そんな所からもカポーティの複雑な心境がわかるのです。

自分の得になるための人間関係。損得のためにさっさと切る事の出来ない人間関係のストレス。血も涙もない、と言いますが、そんな冷たい血は誰もが持っているものでしょう。裏切りとまではいかないけれど、冷たい人間関係。

 そして華やかなような、虚しいような社交界の様子。皆、有名人、カポーティには近づきたがるけれど、カポーティは自分が主役でないと嫌なタイプでしょう。

自分の知っている有名人の話を自慢げに披露する様子。それにまた感心する取り巻きたち。本当に自分の理解者となってくれる人は少ない。

 この映画は、ただの伝記映画ではなく、人間関係というものの濃淡を鋭く描き出している映画だと思うのです。

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