手紙

手紙

2006年10月4日 丸の内 東商ホールにて(試写会)

(2006年:日本:121分:監督 生野滋朗)

 東野圭吾の同名小説の映画化。東野圭吾は色々なジャンルの小説を器用に書き分けるのですが、そのひとつに「社会的問題を扱う」というのがあります。

身内に犯罪を犯して刑務所に入っている者がいたら・・・・その家族はどうなるのか・・・といった事への着目点がいいです。

 この映画の場合、兄(玉山鉄二)が、無期懲役の囚人、弟(山田孝之)がたったひとりの身内。

兄は弟に一生懸命手紙を書く。しかし、弟はなにかと差別され、「兄がいるばかりに」何事も上手くいかない。

それが、次々と出てくるわけですが、兄は相変わらず手紙を書き、返事を楽しみにしている、と書いてくる。

だんだん・・・それが怒りに変わっていく弟。

メールが主体になってしまった今、手紙というのは、刑務所と社会をつなぐ唯一の手段なのです。

 手紙とメールの違いとは、その物理的な質感です。メールはパソコンや携帯の「データ」ですけれども、手紙はもっと重い何か、を持つ。

それが、うれしいとき時もあるけれども、重荷になってしまう・・・しかし、メールでは出せない重み、をこの映画は上手く絵として出していました。兄が弟に出す手紙、また、兄が手紙を出していた別の人。しかし、兄の手紙は、誠意ではなく、ひたすら苦しいものにしかならない、ということが兄にはわからない。

弟はなにもかも、すべて自分の人生は兄のせいで滅茶苦茶だ、と兄を恨む。兄の誠意のつもりの重荷、弟の兄への恨み。

しかし、手紙で兄と弟はまた向き合うことができるけれども、それにはとても大きなものを乗り越えなければならない。

それをお互いが知った時、弟は泣き崩れます。この時の山田孝之が本当に泣き崩れる・・・・という我慢に我慢を重ねたあげくの涙というのが迫真の姿でした。

 私はパソコンを始める前は、手紙が好きで、本当によく手紙を書きました。また、手紙を受け取ったときのうれしさは、やはりメールをもらった時とはちょっと違う重みのあるうれしさです。

そんなメールの時代に手紙の話、というのがとても新鮮で、また、なつかしくも考えさせられる映画です。

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