スクリーム・オブ・アント(原題)
Scream of the Ants
2006年11月25日 有楽町 朝日ホールにて(第7回東京フィルメックス)
(2006年:イラン=フランス:90分:監督 モフセン・マフマルバフ)
特別招待作品
今年もマフマルバフ監督は来日されなかったのですが、メッセージが読まれ、「イランの現状を訴えるような、リアリティのある映画を期待する人はすぐ席を立った方が良い」と・・・いや~堂々と自信にあふれていますね。
監督、よくわかってらっしゃる。もう、今年の監督のメッセージに溜飲さがる思いです。
今回は、哲学も哲学・・・インドへ行ってしまいました。出てしまいましたか、インド哲学。
映画は冒頭、顔の目のところに灰色の手袋を乗せている女性のアップから始まります。
この女性と連れの男性は、イランから新婚旅行でインドに来たカップルです。
暑い日差しの中、大きな日傘をさし、インド人の男の子がその影にそって小石を置く。陽が動くと、男の子たちはまた、いそいそと影にそって小石を動かす。
男の子たちの行動は特に深い意味はないのですが、この映画は「答えのない問いを問い続ける」という終りのない映画なんですね。
だから、男の子たちの影にそって小石を動かし続けるのは終りのない行為。そんな抽象的だけれども、安定した美しい映像の連続、瞳の快楽的な映画です。
私は哲学者ではないから、「わかろう」思って観ていません。でも、「わからないけれど、なんか美だな」と思う。
映像は安定していて、幻想的な光の使い方、インドの暑さが伝わってくるような透明な映像の連続。どんな風景をも正直に映しとっています。これが、インドだ、という決めつけのようなものは見られません。
さて、この夫婦は、観光客ではありますが、夫は観光客としてインドを見ていません。それはカメラが捕らえるインドの街の様子からわかります。
この2人の目的のひとつは、インドのPerfect Man・・・完全なる者と呼ばれる預言者に会いたい、ということがあり、妙に宗教心厚そうな妻と逆に無心論者で、醒めている夫。
列車の中で、新聞記者から声をかけられた夫婦。記者は「眼力で列車を止める老人がいる」というのを取材に行くところだといいます。
超能力とか、予言とか・・・・妻と夫は意見が違う。では、その超能力老人に会ってみようと同行すると・・・確かに、線路の真ん中に老人が座っている。列車は当然止まる。そこへ、物乞いの人々があつまる仕組みになっていて、老人自身「ワシが列車を止めるんじゃない。運転手が列車を止めるだけだ。家にもう帰りたいけれど、周りの人がやめさせてくれない」
この映画は、そういった「醒めた視線」というのが貫かれています。
だから、夫婦、特に夫は何があっても、何を見ても驚かず、表情を変えない。
子供を持つことに関しても、夫は「この今の世界に生まれて子供は幸せだろうか。そうは思えない」と子供を欲しがる妻には冷たい。
完全なる者を尋ねていくと、預言者は、たまねぎの汁である言葉を書いてくれる。荒涼とした砂漠のような所をぽつぽつと歩く夫婦。
妻は、一歩歩く度に、私は蟻を一匹殺しているのね・・・・とつぶやく。歩けば歩くほど、蟻の叫びが聞こえる、と。
そして、ガンジス河に来た2人ですがそこでドイツからインドに移住してきたという男性と出会う。
何故インドなのか・・・に対して、ドイツ人の男性は世界の様々な宗教観を述べ、そしてインドにたどり着いたのだといいます。
そして、インドに安楽を求めに来るのは間違いだ、と言う。ガンジス河のほとりでは、人々が生き、生活し、そして死んだ人が流されていく。
完全なる者が、書いてくれた「答え」を火であぶってみると・・・・「世界は一滴のしずくに全て入っていた」
そして妻は、ガンジス河に入っていき、沐浴をする。周りには全裸のインド人たちが沐浴するシーンがえんえんと映されますが、ここが迫力というか、妻は何を得たのか、何を考えているのか・・・妻は黙って沐浴を続ける。
インドに何を求めてくるか・・・答えを見つけようとする人は結局、答えは見つからないという答えを知ることになるのでしょうね。
それは、インドでなくても今、どこにいても、言えることであり、インドはひとつの「象徴」にすぎないような気がします。
しかし、象徴というものもときには必要ですが、象徴に答えを求めても得られない。
監督のこれからの哲学はどこへ行ってしまうのでしょうか。
そんな事を思いました。
更夜飯店
過去持っていたホームページを移行中。 映画について書いています。
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