海でのはなし。

海でのはなし。

2007年1月17日 渋谷 ユーロスペースにて

(2006年:日本:71分:監督 大宮エリー)

 私は、主演:宮崎あおいX西島秀俊というので、観たわけですが、これは全編スピッツの音楽が流れる、スピッツが主の映画。

音楽が従の映画でなく、音楽が主のPVでなく、音楽も映画も主にした「スピッツのファンの皆様へ」という映画でした。

もう♪わすれな~い、わすれな~い♪ですよ。

 ところが、もう、音楽中心のPVじゃない音楽映像世界をつくりたかったとしても、お話、盛り込みすぎ。

だから台詞はずっと、質問と説明ばかり・・・・なので、かなり戸惑いました。観ていて(聞いていて)がく、がく、とするのです。

 映画の脚本でも、日常会話でも私個人的に言ってはいけないNGワードってのがありまして・・・

「私、おこちゃまだから」

「浮気は男の甲斐性」

「お母さんだって女なのよ」

コレであります。

今時テレビのドラマでもこんな台詞を堂々と書く脚本家はいないのではないでしょうか。

そこら辺は上手くかわすのが普通になってしまったのに・・・・出てきてしまいました、どどど~んと鞠谷友子お母さんの台詞。

「お母さんだって女なのよ」

でた、ずぼっと腹に一発くらってしまい、私はもう海老のようにしゅるしゅると尾を引いて、後ずさり、その場を立ち去りたくなったのです。

 なぜ、NGかというと、映画の台詞(または会話において)において「相手にもう、反論も何も有無を言わせない開き直りの決めつけ言葉」だからです。こういう事、言う人には、逃げているくせに開き直っている卑怯さすら感じるNGワードなのです。

こういわれたらもう、その後の会話はない。 ああ、そうですか。でお終い。

 この映画の2人というのは、親のせいで、気持がゆれる訳ですが、全て親のせい、で、それは反抗期の子供の心理そのもののような気がします。自分は悪くない、親が全部悪いんだ、生まれたくて生まれてきたんじゃないやっ。

しかし、この映画はどうみても20代の2人の話。 

宮崎あおいは、こういう不安定な気持を微妙に演じるのは得意中の得意のようなもので、もうあおいちゃんが「抱きしめて」って言うだけで、スピッツ。

 この映画は2日間で撮影されたそうで、71分の中にこれだけ「お話」つめよう、しかもスピッツの世界に沿わせようという、あれもこれもが・・・説明だらけの脚本と。

 石川寛監督の『好きだ、』は、静謐映画の秀作なのですが、この映画もその雰囲気を出そうとしています。

長まわしで、音を拾っていくというところ。

その静謐だからこそ、余計な言葉を思い切って排し、小さな音を大切にするってのが、台詞だらけ、説明だらけで、まぁ、2人の声、発声はとてもクリアで綺麗だからいいけれど、繰り出される台詞にはもう、もう・・・。

スピッツァーの皆さんは、もううるうるかな。

宮崎あおいちゃんファンは、もう、抱きしめたい!かな。

西島くんファンは、抱きしめられたいかな。

私はどこにも属せず、海老となりひたすら尾をしゅるるしゅるると巻いて後ずさりして海に帰りた~い・・・ってな気持で一杯で。

困ったなぁ。

 良かったのは2人の共通の友人で、菊地凛子が、ちょっとしらけて出てきた所ですね。存在感バッチリでした。

スピッツのファンからしたら、ひとつひとつの台詞よりも、大まかなお話があって、タイミング良く、雰囲気盛り上げてスピッツの曲が堪能できたらそれでいいのかもしれませんが、映画というひとつの世界に完結させる時、脚本は命なんですね。

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