それでもボクはやってない

それでもボクはやってない

2007年1月27日 TOHOシネマズ市川コルトンプラザにて

(2007年:日本:153分:監督 周防正行)

 この映画で一番、私が驚いたのは、2時間33分もあったんだ・・・この映画・・・ということです。

普段から映画は90分くらいがよろしい、なんて言っているので、2時間越える映画は、うーん、とか思ってしまうのですがこの映画は、映される場所がほとんど室内(裁判所内)と限られているにもかかわらず、緊張感がずっと続いている事に驚くのです。

 それは、入念に練られた脚本とテンポとリズム・・・編集のたまものなのでしょうけれど、観ている間は、どうなる、どうなる・・・とひっぱられて時間を全く感じさせないその手練に脱帽です。

 事件は、シンプルすぎるほどですが、それを観察、凝視する姿勢が半端ではないからでもあるのですが、「満員電車の中で、ドアに背広が挟まってしまったのを引っぱった」のが痴漢行為と勘違いされて・・・・あらあらあらと主人公の青年、徹平(加瀬亮)は、「立派な犯罪者」になり「裁判」にかけられてしまう。

 もし、途中下車しなかったら、もう少し余裕があって、背広がはさまれなかったら・・・徹平は普通の生活をそれなりにしていたはずですが、ふとした日常に潜む「容疑者の可能性」・・・痴漢でなくても、交通事故でも、もしあと10秒早かったら、遅かったらというギリギリの所だったりして、いつ自分の身に「裁判」がふりかかってくるか、そのせいでどんなに精神的、金銭的負担が大きいか・・・それを思うと怖い映画です。

 裁判ものというのは、アメリカ映画などあるのですが、この映画は、誰が罪を犯したか・・・ではなく、日本の司法制度を正面から疑問を投げつけているのですね。

テレビなどで、毎日のように犯罪が報道され、容疑者なんて言葉、目にしない日はないのですが、何をもって容疑者と確定されるのか、弁護士を雇うとはどんな事をするのか・・・罪を否定した場合どうなるのか・・・映画はどんどん司法制度の中に入っていく。

そして人を裁くのは、また人である・・・という実はぐらぐらしたものを提示してみせる。

 徹平を演じた加瀬亮は、こういう精神面から痛めつけられる役が上手い人なんですね。

特別な美青年でない分、等身大の青年というのを上手く演じられる若手のひとりです。特別さがないという特別な才能なのです。

脇で出てくる人では、同じく痴漢の冤罪裁判をしているという光石研が良かったです。

徹平の感じている痛みを、一番わかってくれる「同罪の人」 それは、いくら弁護士が話を聞いてくれても、身内や友人が親身になって奔走してくれても、痛みがわかっているのは、同じ待遇の人なんです。

それが傷のなめ合いではなくて、どんどん奥深く、日本の裁判というものを教えてくれる先達の役目になっている上手さですね。

 結果だけでない、裁判の過程を映画にしながら日本の司法制度に疑問を投げつけるというのは、反骨精神を感じるのですが、同じ反骨精神でも、岡本喜八監督の映画は、疑問を提示し、答えをばんっと出すけれど、この映画は、最後の最後まで、ねばってねばって提示し続ける。そのしつこさ、というのも見所でしょう。 

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