子宮の記憶 ここにあなたがいる
2007年2月2日 シネスイッチ銀座にて
(2006年:日本:115分:監督 若松節朗)
家族ものの映画は数ある中で、ちょっと異色の親子もので、沖縄映画でもあります。
原作は藤田宜永。
設定が少しサスペンスタッチです。
17歳の昌人(柄本祐)は、産まれた直後、40日間だけ誘拐されています。
犯人はつかまって、本当の両親の元で暮らしているけれども、真人は両親には反抗ばかりしている。
反抗というより、いきなり憎しみをぶつけるようなシーンで、何故か、は説明されません。
40日間だけ「母親」だった女性が、今沖縄にいる事を知った真人はバイクで沖縄まで行ってその女性の前に姿を現わす。
愛子(松雪泰子)は、海辺でひとり食堂を切り盛りしているのを見て、アルバイトとしてその女性に近づく。
真人が裕福だけれども憎しみしか感じられない家庭ならば、沖縄の女性は再婚しているけれど、暴力的な夫、反抗的な継子・・・にじっと耐えながら1人、もくもくと働いている。
愛子は、なにがあっても愚痴を言わないけれど、その分、表情もない。なにもかもあきらめている表情をしています。
明るい沖縄の空気の中でひとり、耐えている女。
真人は母親とは言えない女性に「母」を感じ、愛子は真人がまさか自分が昔・・・・という事を知らず、真人に「子供」を感じる。
大人と子供と親子は、違うものなのですが、この大人と子供の2人の「親子関係」というのをじっくり静かに、映し出します。
親に必要なものは何なのか・・・親に何を求めているのか・・・そんな事がしっかりわかっている17歳というのは、私は考えられないです。
真人の友だちの女の子が、沖縄までやってきて相談事をしても、真人は「お母さんはともだちだろ。話せないのか?」と言います。
すると「ともだちだから、話せないんじゃない」というやりとりが、今風の「ともだち親子」の歪みをちらっと見せていました。
いくら「ワタシは子供とはともだちみたいなの」とか「息子って恋人みたいなの」と親から言った所で、所詮何かあれば、「親」という立場を振り回すのを子供はちゃんと知っているのです。
真人を演じた柄本祐は、加瀬亮タイプの俳優で、普通の男の子をすんなりと力まず演じられます。
真人は、親に何を求めているのか自分でもわからない。でも、何かを見つけたい・・・そんな焦燥感が上目遣いの時、ちらっと出す。
それに比べ、愛子や友人のバーのママ(余貴美子)は、沖縄で細々と暮らしながらも、色々な過去を持つ大人です。
やはり、ある年齢になって経験や過去というものを持つ者は、大人なのでしょうけれど、どういう大人か・・・は人それぞれ。
松雪泰子が、すべてをあきらめたような哀しい顔をしているのに比べ、余貴美子は、バイタリティがあって、強引なようでも繊細な気配りのできる女性という対照的なキャスティングです。
愛子は、18歳になった真人に向かって「18歳か。もう親は必要ない年齢ね」とすらりと言い放つ。
親子には見えない2人ですが、映画の最後にはしっかりと「母と息子」になってしまっているのに驚きます。
それもこれみよがしの台詞はなく、出てくるのは沖縄の風が吹いてくるような空気と穏やかな音楽だけで劇的な何か、が起こる訳ではない。
他人であるはずの大人の女と18歳になった男の子が近づいたり離れたり、すれ違ったりして、「親子になるまで」を描いて、本当の親子の姿というのはとても微妙で難しいものだ、という事を静かに出しています。
私は子供がいないけれど、映画やテレビやそのたもろもろで、若い人を見ると、○○歳の時産んでいたら自分の子供でもおかしくないなぁ、と思う年になりました。
それが2歳とか3歳でなく、17歳、18歳というのが、微妙にドキドキする気分なのです。もし目の前に「息子です」とか現われたらもう、どうしよう・・・(ってありえないのですが)つい思って、映画館の暗闇でドキドキ・・・したりしました。
考えてみれば、母性本能というのは器用に自由自在に出したり、ひっこめたり出来ないもので・・・自分の思い通りに母性本能出せる人なんていない所を他人同士の親と子、というありえない設定でも上手く母性本能を描き出しているような気もします。
更夜飯店
過去持っていたホームページを移行中。 映画について書いています。
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