上海の伯爵夫人

上海の伯爵夫人

The White Countess

2007年2月12日 渋谷 シネマ・アンジェリカにて

(2005年:アメリカ:136分:監督 ジェイムズ・アイヴォリー)

 監督 ジェイムズ・アイヴォリー、脚本 カズオ・イシグロ、撮影 クリストファー・ドイル、主演 レイフ・ファインズ、真田広之・・・ついでに言えば脇にリン・レッドグレイブとヴァネッサ・レッドグレイブ・・・・とまぁ、これだけ出て、「贅沢!」とつい思ってしまうのですか・・・

 『日の名残り』以来の監督、脚本コンビなのですが、これは原作があるのではなく依頼して脚本を書き下ろしたものだそうです。

だから原作本というのはないのでした。

 最初の、雪が舞う舞踏会のシーンでもうくらくらって感じですね。

1936年の上海の租界地区、というのは特殊な外国であって『追憶の上海』などという映画もありました。

 この映画の主人公、ジャクソン(レイフ・ファインズ)は有能な外交官だったのに、視力を失い、上海でクラブ・・・夜総会を開こうとする。

そんな時出合った2人。ひとりは、ロシアから逃亡してきた元貴族のソフィア(ナターシャ・リチャードソン)、もうひとりは謎の日本人、松田(真田広之)

 退廃のムゥドと中国内での戦争、日本軍の侵略の気配がいつも画面に漂っています。

その場だけ楽しければいいという刹那的なムゥドと、がやがやと落ち着かない雰囲気が同居しているという雰囲気がいいのです。

そして、元貴族とはいえ、今はバーで男性を相手にホステスのような事をして家族を養っているソフィアを、目が見えないながら気品を感じ取り、「バーに必要なのは、退廃した貴族の美しい未亡人のような悲劇性のある華」と自分のクラブに引き抜く。

クラブの名前は、「白い伯爵夫人(White Countess)」

 また、松田は何者かわからないけれど、流暢な英語で、「クラブに必要なのは、もうひとつ。政治的な緊張ですよ・・・」と中国の共産党や国民党といった政治がらみの客を「泳がせる」

 ジャクソンとソフィアはひかれながらも、お互いに干渉はしない、という節度・・・厳しすぎるくらいの節度をもって接します。

また松田も謎めいているけれども、紳士的な人物。

 そんな3人の演技合戦のようです。特に、レイフ・ファインズの存在感、そして真田広之の膨大な英語の台詞には圧倒されます。

真田広之は、脚本はあったけれど、現場でのきちんとした動きの指示がなく、レイフ・ファインズと話す所がたくさん出てきても、ほとんど動きは任せられてしまったそうです。レイフ・ファインズは目が見えない。そんな動きにあわせて自分の動きを考えながら演技しなければならなかったと語っていました。

 悲劇的な要素をいつも持っている落ちぶれた高貴な女性・・・ソフィア。ソフィアの家族は、働きもしないのに、貴族の誇りにしがみついている。金はすべてソフィアに稼がせているのに、その仕事を蔑視している、という矛盾。

 映画は、退廃的なムゥドが続くのか・・・と思わせると急展開。日本軍が侵略してきて、また中国は共産党が勝利をおさめ大混乱。

外国人たちは、出国へとなだれこむ。

 べたべたとした接触がないけれど、3人の結束は固い。しかし、松田は日本軍を動かすことの出来るくらいの黒幕だという。

激しい変化へと突入する中国の風景が、大変な迫力です。

 私はレイフ・ファインズの開いたクラブのカウンターの席が異様に長いのを移動カメラでゆっくり追うとか、酒と煙草と踊りでさざめくクラブの空気とかが大変気に入っているのです。

今時、1930年代の貴族、伯爵夫人なんて重厚にだせるジェイムズ・アイヴォリーはさすがだと思いました。

 退廃のムゥドと緊張感がいつも隣り合わせな中で、3人は3人とも頑固です。

それぞれ、どうしても譲れないものがある。それは、悲劇的でもあり、先が見えない不安をはらんでいる。

不安、期待、あきらめ・・・そして恋。そんなものが、強烈ではなく、画面にゆったりと流れては消えるような映像美に酔う映画でもありました。

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