蟲師
2007年4月16日 銀座 丸の内TOEIにて
(2006年:日本:131分:監督 大友克洋)
大友克洋の漫画に出合ったのは高校生の時です。
その後、『AKIRA』で大ブレイクするまで、が好きでしたね。
緻密な絵(きしる丸ペン、悲鳴をあげるアシスタント・・・とか書かれるくらいの緻密さ)も良かったのですが、わたしが好きなのは『気分はもう戦争』あたりです。
大友克洋というビッグネームは、漫画やアニメでは通用するのだけれど、前作『スチーム・ボーイ』がとにかくわかりやすい大衆ファミリー映画になってしまった反動なのか、この映画、とても説明を「したがらない」のです。
しかし、台詞で説明をしなければならないので、その説明が、さっぱり映画の筋につながっていないのですね。
この映画では蟲師という蟲を操る者たち・・・という設定なのですが、主人公の蟲師のオダギリージョーはヒーローではありません。
逆に蟲にやられて、げんなりとしてしまうのですが、いつの間にか復活していてあの蟲はどうなったのだろう、とか不思議に思ったり。
各エピソードは面白い設定です。
出てくるのは、緑の多い山の中や、森といった自然の風景。
蟲を文字で閉じこめる美少女、淡幽に蒼井優。その侍女に(なんと)李麗仙。
蟲師、ギンコが出合う、虹を追っている若者、虹郎に大森南朋。
特撮が凝っているのですが、とても地味に見えます。
エピソードのつなぎ目が、苦しい台詞の説明だから、いい意味でも悪い意味でもおとなしい映画となりました。
この映画を観て、つくづく思ったのは、映画における説明とは?です。
もちろん、物語があるのだから、設定があって、特にこういった世界は決まり事がたくさんある訳で、それをどう説明していくのか?という点ですね。
原作は人気漫画だそうですが、わたしは今は漫画を読まないので、予備知識もなければ先入観もありません。
そんな白紙の観客に、台詞で説明、だけでは映画としてどうなのだろう、と思います。
同じ人気漫画原作でも未読だった『デス・ノート』は、今から思うと説明が上手かったので、すんなりと映画に入り込め、時間が経ってもわたしはデス・ノートのルールを覚えていますが、この蟲師のルールは、さっぱり頭に残らないのでした。
それは、何かあると、「これは・・・である」と台詞でさっと言って、説明が映画と観客をつなげる役目を果たしていないのではないか、と思います。
別に、なんでもかんでもわかりやすく説明しろ、とは思いません。余白のわけわからない部分があって大いに結構です。
この映画は、余白の部分の説明が多くて、芯となる部分・・・の説明をしたがらないのでした。だから、ひとつひとつのエピソードがつながらず、一体感がない。
一体感ということでは、自由奔放な映画もあってもいいとも思いますが、この映画は、妙に抑えてしまって奔放さも感じられないのです。
映画の色遣いはとても好きなのですが、物語を語る部分では苦しい思いを、してしまいました。
更夜飯店
過去持っていたホームページを移行中。 映画について書いています。
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