明日、君がいない

明日、君がいない

2:37

2007年5月4日 渋谷・アミューズCQNにて

(2006年:オーストラリア:99分:監督 ムラーリ・K・タルリ)

時々、はさまれる学校のポプラの木の葉を通して見る空はいつも曇り空。

キャンパスライフ、スクールライフを謳歌しているとは限らない6人の高校生たち。

それぞれが、悩みや傷を持ち、それをひたすら隠している。

そして映画の冒頭、学校のトイレで誰かが自殺する。時間は午後2時37分。

皆が皆、「いじめられている悩み」ではない。

家族からの抑圧。ゲイであることを公表したために孤立する男の子。ファザーコンプレックスから逃れられない男の子。身体の障害で何かと周りから疎まれる男の子。そして、一見、スポーツマンで人気者、とりまきに囲まれてブイブイ言っているような男の子とその恋人の女の子。

立場で言うと6人のうち、3人が強者、3人が弱者。

この映画を「若気の至り」と言った人がいるのですが、正にそうです。

監督は、19歳の時この映画製作を始め、出来上がった映画は、カンヌ映画祭、そして去年の東京国際映画祭でコンペティションに出品され、他にも世界の映画祭を回ることになりました。

 監督の友人が自殺した事にショックを受け、また監督自身が自殺未遂をするまで精神的に追いつめられてしまった経験が、ダイレクトに映画に投影されている、等身大若者痛み映画。

 同じ年のティーンエイジャーが集まっているのに、何故、皆あんなに孤独なのだろう。

6人を演じた役者さんたちは、途中にはさまれるインタビューで心境を吐露しますが、その時、アップを通り越して、額や顎は切れていて、目から口までしか映らない、という大写し。

 その目の力というものを感じます。

強者である3人は自分の弱さを棚にあげて、人を傷つけても自分が常に主人公。

若者の傲慢。

弱者である3人は人間不信に陥っているけれど、なんとか地に足をつけようとしている。痛みのわかる心を持っている。

悲劇の若者。

 あるエピソードがあると、次のシーンはそのエピソードで背景だった所がメインになってくる、という映像のだぶらせかたをしていますが、その計算は見事で、そして、冒頭自殺したのは、一体誰なのだろう、とサスペンスのようにもなってきます。

 6人は、それぞれ関係があるけれども、基本的には6人はそれぞれ孤独。

1人の死が、その孤独や悩みをなくすことはない。

何故、死ななければならなかったのか・・・・よくよく観ないとわからないのですが、まぁ、こういったすっきり起承転結のない映画は、映画祭映画としては、ありですが、一般商業映画としては、「わからない人は永遠にわからない世界」なのです。

 監督は、そんな6人=監督自身の吐露を通して、生きることの苦しさと生きるということ大事さを同時に映像で、語ってしまいます。

映画については何も知らなかった19歳の若者が、映画を作る、という所まで突き動かすくらい、1人の人間の生というのは大事だ、ということがよくわかる映画。

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