バベル
BABEL
2007年5月15日 日比谷・スカラ座にて
(2006年:メキシコ:143分:監督 アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ)
映画というのはひとつの箱だと思います。
その箱は、上の面に手が入れられる口があって、中身は見えない。
中身は何か、わからないけれど、その口に手を入れて、中になにがあるかを、おそるおそる探る・・・そんなものかもしれないとこの映画を観て思いました。
中にあるのは、ふわふわした子犬かもしれない、いや、冷たい氷かもしれない、もしかしたら、毒針を持ったサソリかもしれない・・・・中身がわかならいのを手で直接ふれなければならない勇気。
しかし、この箱は無地ではなく、箱の表面には色々なものが書いてあります。
カンヌ国際映画祭監督賞受賞、アメリカ・ゴールデングローブ賞受賞、アカデミー賞ノミネート、日本人の役者として注目された菊地凛子の話題、ハリウッドスター、ブラッド・ピットとケイト・ブランシェットの共演、その他、色々な映画祭での受賞。
なんとも派手派手しい箱。
しかし、その箱に手を入れた・・・映画を観たわたしが感じたのは、モロッコ、日本、メキシコ・・・舞台となる3つの国の空気の温度と風の感触、そして音の違いでした。
モロッコの不毛の地のような所に吹き荒れる風の音、日本の渋谷のネオン街のじっとりとしめった空気とディスコできらめく世界にいる高校生の何も聞こえない音、メキシコの砂塵が混じっているような空気と結婚式の喧噪。
そして言葉や文化を越えて、一発の銃弾から、世界へつながっていく悲劇とそれに巻き込まれる人々のつながり。
モロッコの兄弟、銃弾に倒れるアメリカ人の妻と夫、日本の父娘、アメリカで不法滞在しているアメリカ人夫婦の子供の乳母とその甥・・・・最後の最後にならないとそれぞれは正直になれない。
そして皆、それぞれ不自由を抱えている。貧しさ、銃弾の傷、助けが来ない絶望、耳が聞こえない、娘のことがわからない、不法滞在を隠しながらアメリカで働く、アメリカとメキシコの国境の厳しさ。
高慢になってバベルの塔を作った人間に下されたのは、言葉をばらばらにするということなのですが、同じ言葉を喋っている者同士がわかりあえていないことをこの映画は、実に丹念に作り上げています。
時間軸をずらしながら3つの共通する世界を描くというのは、監督が以前『21g』でもっと複雑な時間軸の使い方をしているので、わかりやすい方だと思いましたけれど、それでもこの3つの言葉の違う世界の描き分けだけでも大変なのに、時間軸をずらしていく・・・こういう映画は映画祭などで高く評価されても、わかりやすい娯楽映画と並ぶと異色な映画です。
それだけに、賛否が極端に分れてしまいます。
映画という箱には、中になにかしら入っている。
それが何か・・・は人それぞれだと思うのですが、否とした人は、おそらく「この箱には何も入っていない」と入っているのに、触れずにさっと手を引いて言っているような気がして、そういう「否定の言葉」が、また皮肉にもこの映画のタイトル、バベル・・・そのものを現わしているようで、なんだか天罰が下るのを何も知らずに、高慢なままの人間たちに思えて仕方ないのです。
誰がどう思おうと構わない、好き嫌いは仕方ない、と思いますが、否にすればするほどタイトルが、身にしみてくるという、この映画はとても手強い罠を持っています。
それは、監督がキャスティングから、撮影まで、時間をかけて、妥協することなく作り上げた世界の自信の裏打ちをしているような複雑な気分になるのですね。
観終わって、「あ~よかった」ではすまず、その後の、観た人々の「言葉」まで包括した映画というのは、めずらしい存在だと思います。
更夜飯店
過去持っていたホームページを移行中。 映画について書いています。
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