殯(もがり)の森

殯(もがり)の森

The Mourning Forest

2007年7月16日 渋谷 シネマアンジェリカにて

(2007年:日本=フランス:97分:監督 河瀬直美)

第60回カンヌ国際映画祭・審査員特別大賞(グランプリ)受賞

 河瀬監督の前作、『沙羅双樹』を観た時に、その空気の自然さに驚きました。

決してドキュメンタリーではないのに、普通の人々の会話、生活の音・・・そんなものをまるでその場にいるかのようにスクリーンに映し出す。

その映像手法が個性的で独特でした。

ですから、ドラマチックだとか、文学的だとか、説明的だとか・・・そういった事を一切排している世界なので、この映画も実に映画祭的な映画であって、一瞬の娯楽を求める観客向きではないのです。

 前作も奈良の物語でしたが、今回も奈良が舞台になります。

奈良の北部にあるグループホーム。

グループホームというのは、介護施設の一種ではありますが、老人ホームではなく、何人かが集まって共同生活をしていく、というものです。

そこに、介護スタッフが加わるという、なにもかもお世話します、という介護ではなく、自分たちでできることはやっていく・・・という福祉介護の先進国である北欧諸国ではどんどん、すすめられているものですが、日本では、まだ認知度が低く、そして経営も実際は難しいのです。

 しかしこの映画は、グループホームにおける・・といった社会性を問う映画ではありません。

たまたま、この映画に出てくる主人公が、新人介護スタッフとしてグループホームに行き、そこで出合う軽度の認知症の老人との物語なのです。

老人といっても、しげきさん、というこの人はまだ体はしっかりしていて体力もありますが、33年前に亡くした妻との思い出に生きているような、ひとりの世界に入っていってしまっている人。

真千子という、新人スタッフは、一生懸命やろうとするけれども、しげきさんからは「拒絶」しかない。

皆、仲良くではなく、微妙に好感、不快感を持つ・・・気持がまだ体験からしても、理解できない真千子は、しげきさんの大事にしている古いリュックサックを何気なく触ってしまい、逆鱗にふれてしまい突き飛ばされてしまう。

 悪意でしたことではないけれど、それがわかってもらえない悲しみと不安にさいなまれる真千子。

そしてそれを支える先輩の和歌子(渡辺真起子)

 この「事件」があった後の真千子は、何もなかったようにしげきさんと接しようとするあたりの、不安を隠せない表情などとても刻銘に映し出されていました。

嫌われたから、もう、接しない、という訳にはいかないのです。

しかし、しげきさんとは、少しずつ、距離を近づけていきます。

真千子としたらとても辛い事だと思います。

緑が美しい茶畑で、無邪気に逃げ回るしげきさんを、最初は戸惑っているけれど、だんだん、うち解けて、追いかける真千子の表情に安堵の色が見えるのです。

 そして、2人で車で遠出をすることになったものの、迷い込んでしまった深い森。

ここで2人の関係は、急激に近くなるか、というとそんなにドラマチックではないでのす。

なかなか、言うことを聞いてくれないしげきさん。

しかし、道に迷い、雨まで降ってきて、責任的にも追いつめられる真千子。

激流になりそうな渓流を渡ろうとする、しげきさんを「いかんといて!やめて、いかんといて!!」と絶叫する真千子の声は、恐怖と怒りと心配とがまさに激流のように、ほとばしる肌に粟立つようなリアルなシーンでした。

そんな泣きじゃくる真千子の頭を、まるで子供の頭をなでるようにぐりぐりとなでるしげきさん。

 この映画は、緑の映画です。

茶畑の緑。山の緑。野原の緑。しげきさんと真千子が走り去った後に、風が吹いて、草がなびく、風の音がする・・・とても静かな映画です。

劇的な事よりも、人々の姿や自然をながめ、追いかけ、時にはのぞきこむように迫るカメラワーク。

そしてしげきさんが、大事にしているもの・・・死んでしまった妻への鎮魂の想い。

深い緑の森の奥にある大樹。それに触れたとき、2人の中では、なにかが鎮まったように思います。

 わたしは、もともと緑の風景が好きなのですが、そんな風景、そしてとても静かではあっても、激しい想いを秘めたようなこの映画を、大切にしていきたいと思いますし、これが国際的に評価され、そのことでこの映画を知る人が増えた事を嬉しく思います。

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