私たちの幸せな時間

私たちの幸せな時間

Our Happy Time

2007年7月28日 シネカノン有楽町にて

(2006年:韓国:124分:監督 ソン・ヘソン)

 不幸、というのは、人に決めつけられて、言われるものではありません。

何が不幸で、何が幸福なのか・・・そんな事は本人しか実感できないものです。

不幸、と感じてしまったら不幸。幸福だと思ったら、それは幸福。

 ソン・ヘソン監督は過去、『パイラン』『力道山』で、幸福いっぱい、とはいえない人々を描いてきました。

それも情け容赦なく、骨太にびしびしと来る甘えのない映画。

わたしはそんな監督の骨太な映画世界のファンです。

 恋人が病気で死んでしまったらかわいそうでしょう。

かわいがっていた子供を亡くしたら、悲しむでしょう。

お互いを傷つけ合ったあげく、別れた男女はそれぞれが不愉快で気分が悪い。

そんな「つらい気持」を、痛みを想像できない無神経な人々に「不幸ねえ~」と笑われた耐え難い痛みを経験しているわたしは、今、メディアであふれている「人の不幸をのぞきたい」をいいことだとは思いません。

 この映画は、金持でも精神的には苦しくて自殺を繰り返す女性と殺人犯で死刑囚になった男が出会い、とことん対峙する映画です。

 どちらも最初は、もう死んでもいい、かまわない、こんな世の中生きていても仕方ない・・・とベクトルは違うけれど、なんの救いも見いだせない2人なのです。

 女性、ユジョンを演じたイ・ナヨンは、金持のわがまま・・・ともとれる自殺未遂を繰り返し、家族への憎しみで燃えている。でも、現実問題として、そんな嫌で仕方ない家族にすがって生きるしかないのが、ますます、自暴自棄な行動に走らせる。

ほとほと手を焼いた家族の中で、教会のシスターをしている伯母が、しばらくユジョンをひきとる。

そこで、ボランティアとして死刑囚を慰問する場にユジョンを連れて行く。

そこで出合うのが、ユジョンとは正反対の死刑囚、ユンス(カン・ドンウォン)

両親から捨てられ、貧しさから抜け出せず・・・殺人を犯してしまったユンスも世間への憎悪で満ちている。

伯母のシスター・モニカは菓子パンを差し入れて、優しく話をしようとするけれど、そんな親切を「偽善」と見なし、拒むのを見ているユジョン。

 ユジョンは、それからもユンスに会いに行け、と言われるけれど、ユジョンはユンスを「かわいそう」だなんて思える余裕がないから、冷たい言葉または沈黙しかない。

 そんな2人の息詰るような重い沈黙。

しかし、ぽつぽつと話をしていくうちに、2人は「生きる、に背を向けている同士」だという事がわかってきます。

1人は、死にたくて仕方ない、1人は死刑が決まっているのです。

しかし、だから急に2人は親しくなり恋心を抱くようになりました・・・という安直な流れには決してなりません。

 もともとが違う2人。だからこそ、沈黙が2人の会話。

決して、大恋愛や大事件を大きく描く映画ではなく、焦点は2人にしぼられていく。

「金持なのに不幸だ、なんて言う人がいるんだ・・・」というユンスの言葉が、ユジョンにはとても重い。

そして「自分は不幸」と強く思っていた2人が、「幸せ」と感じる時間を持てるようになるだけでとてもドラマチックなのです。

この2人は不器用なくらいまっすぐなあまり、器用に他人の顔色を読んで世間を上手く渡っていくことができなかった2人だと次第にわかってきます。

 ユンスはいつも手錠をはめられているので、2人には肌の接触はないのです。

2人の間には何かしらの壁が必ずある。

あくまでも精神的につながっていく2人の気持を骨太に描くのです。

それはある時はののしりあいになり、冷たい言葉の応酬であったり、黙って答えないという拒絶であったりします。

 寝た=恋愛、という安直な考えを全否定するような、精神的に愛することの崇高さをここまでだされると圧倒されて涙がとまらないのです。

 シスターがいつも持っていく菓子パン、外に出られないユンスのためにポラロイド写真を撮って歩くようになるユジュンの写真にたまたま映っていたもの、いつも面会の立ち会いにいるイ主任のとった行動。

 過去、『デッドマン・ウォーキング』でショーン・ペンが死刑囚、スーザン・サランドンが教会のシスターという2人を描いた映画がありましたが、この映画はただひたすら後味の悪い重い気持が残るのではなく、死というものへの真摯な姿勢、そして本当の救いとはなにか・・・・を力強く描いたドラマチック映画です。

 甘いだけではドラマチックは成り立たない・・・ドラマチックにする条件は、「骨太」これです。

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