ふたりの人魚
蘇州河/Suzhou River
2007年8月21日 新宿 K's cinemaにて(中国映画の全貌2007)
(2000年:中国=ドイツ=日本:83分:監督 ロウ・イエ)
2000年 TOKYO FILMEX グランプリ受賞
僕は以前 人魚を見たことがある
河辺で金色の髪をとかしていた
でもこれは嘘かも
これは2つの嘘の話なのかもしれません。
ふたりの女性、メイメイとムーダンは、ジョウ・シュンがひとり2役演じていますが、どちらもそれぞれ「人魚」なのです。
そして、映画の語り手であり、カメラはずっと語り手の視線であり、「僕」という人の煙草を吸う手や、酒を飲む時の手などが出てくるだけで、カメラは常に「僕」から見た世界だからです。
ひそひそとつぶやくような「僕」のナレーションには、どこか孤独というより、後ろめたいような、秘密にしたいような空気を感じたのはわたしだけでしょうか。
なんでも撮影します、という商売をしている「僕」は蘇州河のほとりに住んでいる。
そして、船で河を登ったり下ったり・・・・河で働いている人たち、遊んでいる子供たちや犬、なんにもしないで座っている人たち・・・河はひどく汚れ、臭いがしそうな河。
青年は、バーの店主から店の「人魚ショー」を宣伝するための映像を撮って欲しいと依頼され、バーに行きます。。
金髪のかつらに、濃いメイク、赤い人魚の格好をした女の子が、泳ぐのを眺めながら酒を飲むというバー。
そこで人魚をしている、メイメイに僕は一目惚れする。
本当にそこに出会いと葛藤の末のドラマなどなく、僕はメイメイが好きになる。
僕はメイメイに夢中になるけれど、彼女は時々、姿を消す。
そしてはさまれる別の話。
バイクの運び屋をしている馬達(マーダー)というちょっとハンサムな青年。
ある時、女の子を運んで欲しいと頼まれる。父がズブロッカ成金で女遊びをしたいときだけ、娘を伯母の家に送ってくれないか?
まだ、少女のようなムーダンという女の子と次第に親しくなるマーダー。でも、ムーダンを人質にして身代金をとろう・・・という話を持ちかけられ、ムーダンの気持を傷つけることに。
「次に会うときは人魚になってる」と言って目の前から消えたムーダン。
ムーダンがいなくなって、初めて、マーダーはどんなに自分はムーダンが好きだったかを思い知る。
そしてこの物語の中の物語が突然、クロスし合体する。
刑務所から出てきたマーダーがメイメイを見て、ムーダンだ、と言い張り、離れようとしないのです。
突然、「僕の物語」に飛び込んできたマーダー。困惑するメイメイ。必死にムーダンとの話をメイメイと僕に説明するマーダー。
映画はずっと一定の温度を保っており、熱くなったり、冷たくなったりしません。
カメラはずっと「僕」の世界しか映さないし、もし、僕が嘘をついていて、本当に作り話・・・マーダーとムーダンの話もメイメイの存在もどこか希薄。その薄さの出し方が独特であり、とても美しい風景にもなります。
ムーダンとメイメイを演じたジョウ・シュンは、くりくりとした目に童顔、少女のように人魚人形で遊んでいてもおかしくないし、濃い化粧で人魚になって泳いでいてもおかしくはない大人びた雰囲気を持ち合わせる。
2つの世界を見事に演じわけるジョウ・シュン。そして、一途なマーダーという青年。姿の見えない、声だけの語り手の僕という2人の青年。
物語は意外な結末ともいえるものでしたが、最初のモノローグで全てを語っていたことが、後になってわかり、これは本当の事なのか、作り話なのか、それを迷宮のようにしないで、理路整然とさせた語り口が、鮮やか。
お金をそうそうかけた映画ではなく、人魚のコスチュームもいかにも安っぽいキンキラしたものなのですが、それがまたこの映画の「作り話風」な手法にぴったりなのですね。
メイメイは僕に聞きます。わたしがいなくなったら、マーダーのように探してくれる?・・・・うん・・・と言うと・・・嘘つき。
この映画はラストは真っ暗でモノローグだけです。語り手の僕が目をつぶってしまったように。
ロウ・イエ監督の素っ気ないような、詩的な脚本と、映像がぴったりあっています。
監督は、この映画が終わっても「カメラが止まっただけで物語は続いているのです」といった事を言われていて、本当にずっと僕の目で蘇州河の風景を観ていた観客は、終わった後もまだカメラを通して世界を見ているような心持になります。
現実が、とっても虚構の世界に見える。
一目惚れ、というありふれたようで、どこか物語めいた出会いを、さりげなく、かつインパクトを持たせた究極の「一目惚れ映画」
更夜飯店
過去持っていたホームページを移行中。 映画について書いています。
0コメント