次郎長三国志 第八部 道中一の暴れん坊

次郎長三国志 第八部 道中一の暴れん坊

2008年1月13日 東京国立近代美術館フィルムセンターにて(生誕百年 映画監督 マキノ雅広(1)

(1954年:日本:103分:監督 マキノ雅弘)

 これは・・・・・シリーズの中で白眉といいますか・・・・見応えのある一本。

森の石松の恋とそして死・・・なのですが、なんとも、しっとりとした抒情性と、人情味と、豪胆さ・・・・が融合していて、ここら辺は、有名な話なのかもしれませんね。

(追記:このシリーズを観た後、山田宏一著『次郎長三国志 マキノ雅弘の世界』を読みました。

監督へのインタビューの中で、この第八部は、原作(村上元三)の連載よりも映画の方が先に進みすぎて、この映画のストーリーやキャラクターは、全て原作者と相談した上での監督のオリジナル脚本。講談などで知られている有名なエピソードはあえて、使わなかったということです。このシリーズのタイトルは東宝側が勝手につけたもので、この第八話は「石松開眼」でいきたかったのに・・・とのことでした)

 今まで、女とは縁がなかった森の石松。今回はどんと主役です。

もう、森繁久彌の魅力満載。素晴らしいですよね。純情でも、頑固で、照れ屋で、でも、恋しくて・・・って見事なりよ。

素晴らしい恋愛映画だと思います。

 金毘羅様(讃岐)へ、刀を奉納しに行けと突然言われる森の石松。

いつも、一緒の三五郎は行かない・・・という。讃岐の女は素晴らしいぞ・・・・といわれても、俺は・・・関係ねえやっ!

でも、金を渡されても、酒は飲んではいけない、博打を打ってはいけない・・・・でも、女郎屋はいい。なんて条件だされて照れ照れ(でも内心、ワクワク)で、出発する石松。

このとき、三五郎が「俺が行かないから大丈夫だよ」というと「ひとりじゃ、さびしんでい」とつぶやく一瞬がいいんです。

三五郎と一緒だと、いつも女性は三五郎になびいてしまう・・・・石松、ひとり振られ男・・・・をみかねた親分なのです。

 この前に、親分の女房お蝶の法事がありますが、そこにふらりと現れた老人が志村喬。

実は大親分なのですが、後々、石松の恋を助ける重要人物になります。

 讃岐に行ったからといって、すぐにいい女に巡り合えるわけでない・・・・と思ったところに出会った夕顔という女郎。

石松は、夕顔に「みやげ話をしなきゃいけないから・・・・一晩、傍にいてくれるだけでいいんだ・・・好きになってくれとは言わない」と言いますが、見かけは無骨な石松の純情に夕顔は惚れてしまうのです。

 ここら辺が、もうね、抒情性たっぷりですね。

女郎という哀しい身の上を、訴えるわけでなく、夕顔は黙って石松の話を聞く。口数少ない、おとなしい夕顔。

夕方咲いて、朝には散ってしまうはかない花のようなんですね。

 石松が帰るとき、夕顔はそっと手紙を渡す。

返りに志村喬親分のところへ寄った石松ですが、そんな「不器用さ」に喝!

次郎長親分と違って、皆で一緒に農作業をして、細々と家をやっているけれども次郎長親分とは違った親分肌を見せます。

穏やかなんですが、突然、「そんなことがわからないやつは死ね!たたっ切ってやるっ!」と石松の照れというか引け腰を一喝するときの迫力、びっくりしました。なんで惚れた女をすぐあきらめるっ!自分の力で自分のものにしろっ!

 石松は、今までにない「自分を待っている人がいる」という事を身にしみるわけですが、ああ、ここで、石松を狙うやつらがひたひたと・・・。

「俺は死ねないんだ」と何度も繰り返しながらも刃に倒れる石松・・・。

木の枝をつかんでいた石松の腕がはらり・・・・と落ちる・・・・う~~~ん、とうなったシーンですね。

 恋愛というものをあまり描かなかった中で、ここでど~~~んと描いてしまって、しかも見せ場もりだくさん。

なんともいえない哀愁感を残す・・・見ごたえのある映画ですね。 


***追記***

次郎長三国志は、全9作の内、第三部とこの第八部が名作と言われております。

その通り。

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