炎上
2008年3月10日 DVDにて
(1958年:日本:99分:監督 市川崑)
原作は三島由紀夫の『金閣寺』
実際、1950年に青年僧の放火によって金閣寺は一度、燃えています。
それを小説にするとき、三島由紀夫は念入りな調査をしたそうですが、その調査の資料を市川崑監督が借りてさらに映画化としての資料としたそうで、すごいですねぇ。
映画では金閣寺、という名前を使うことは許されず「驟閣寺(しゅうかくじ)」となっていますし、冒頭に、架空の人物である、と明記されていますが、モデルとなった人物はいる、ということです。
何故、驟閣寺を京都で、日本で一番美しいと思い、憧れに近いものまで持っている、大事なものを燃やそうとしたのか・・・
それをこの映画は淡々ともいえるモノクロの映像で描いています。撮影は宮川一夫。
この映画を観終わったときに「なんて悲しい映画だろう」と思いました。
こんなに悲しい映画は他にはないのではないか?
主人公、溝口(市川雷蔵)は京都の大寺で庭に驟閣寺がある寺に僧侶となるためにやってくる。
ひどい吃音で、人前で上手く話せず、いつも人から吃音のことをいわれ、からかわれ、馬鹿にされ、口の重たい、まじめだけれども頑なな青年。
驟閣寺の美しさは、亡き父から教わって以来、憧れのようなもので、溝口の中で一番大事なもの、それが美しい驟閣寺。
また、寺の老師も尊敬できる人物のようです・・・最初は・・・しかし、どんどん溝口の前に出てくる「偽善」と「低俗」
寺での居場所がどんどんなくなっていく。心の居場所をなくしていく。
背徳行為が許せない母の存在。
そして、足が悪いけれど、それを逆に利用して、世の中の偽善をせせら笑っている学生が、仲代達也でした。
この仲代達也とつきあううちに、どんどん、溝口の心の中の闇は大きくなる。
それを、悪魔的にそそのかすように、ずばずばと言い切る仲代達也。
コンプレックスとひとことではいいきれない、複雑な闇を抱えた青年が、自分の居場所をどんどんなくしていき、自分の存在を消す代償のように、世界で一番大事なものに火をつける。
驟閣寺を燃やすことは、自分を殺すこと、自分を世の中から抹殺してしまうことと同じだと思うけれど、やるせない気持をどこへもっていったらいいのか溝口には、もう、わからなくなってしまう。世の中にはもう、美しいものなど、ない、いらない、なくしてしまえばいい。
その罪への願望が、じわじわと観ている者の気持に火をつけ、不安をつのらせる。しかし、目はそらせない。
父の葬儀で火葬にしたときに見つめた炎。そして、驟閣寺に広がる炎。それは、溝口の心の闇に他なりません。
市川雷蔵は当時、美男スターとして売り出し始めていて、この溝口役は反対されたのだそうですが、額に汗を浮かべ、屈辱に耐え、劣等感に苦しみ、人が信じられなくなり、偽善が許せず、美しい驟閣寺を金儲け・・・としか実は老師すら見ていないことを知った絶望感、母への憎しみ・・・・それが思いつめたような伏し目がちの顔にありありと出ているのがすごいと思います。
悲劇というより、哀しい映画なのですが、そのあまりの哀しさを「美しく燃え上がる驟閣寺」という美しさに昇華させている・・・この映画の哀しみは、痛みのわからない人には理解できない哀しみです。
更夜飯店
過去持っていたホームページを移行中。 映画について書いています。
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