鬼火

鬼火

LE FEU FOLLET/The Fire Within

2013年11月17日(DVD)

(1963年:フランス=イタリア:108分:監督 ルイ・マル)

 僕は明日、自殺する。

誰も僕を愛してくれなかったから。僕も人を愛せなかったから。

この映画は、自己愛から来るひとりの男の破滅を描きます。

 主人公のアラン(モーリス・ロネ)は、重度のアルコール中毒で入院中。しかし、映画は病院を抜け出してニューヨークにいる妻の同僚と情事をしたところから始まります。

そのとき、情事の相手はこう言います。「あなたは寂しがり屋だから」

病院に入院といっても、金持しか入れないような病院というより、豪邸に間借りしているようなぜいたくな暮らし。

かつては軍隊にいて、右翼活動、結婚してニューヨークに妻と行くもののアルコール中毒でひとり、フランスに戻り入院。

院長は、もう、酒は大丈夫だから退院してもいい、と言いますが、アランは社会復帰などする気は全くありません。

 若き日の友人たち、女たちに会いに行き、そして自殺してこの世に決別するのだ・・・それしか考えていないのがわかります。

かつて血気さかんだったらしい友人たちは、30歳を過ぎて家庭を持ったり、理屈をこねるばかりでアランを救ってはくれない。

アランがもう、会いに行く友人たちの言うことなど、全く耳を貸さないのです。

この映画はずっとそんなアランを演じたモーリス・ロネを追い、他の登場人物たちはただ、通り過ぎるだけです。

 ある友人は、アランに「大人になれない。いつまでも青春にしがみついている」と言い、別の友人は「結局、君はどうしたいんだ?」と問います。

そう・・・わたしも観ていて「結局、アランはどうしたいんだろう」と思いました。

しかし、アランは会う友人たちに次々と失望し、また酒に手を出す。

 ルイ・マル監督は財閥の御曹司だったそうで、主人公アランと同じ30歳の時、この映画に自分を投影させて「持てるものの悩み」をしつこいくらい追いました。

ルキノ・ヴィスコンティ監督も貴族の出身でその出自にからんだ内容の映画をたくさん撮っていますが、ルイ・マル監督は、それを「ねっちりとしたような視線」で描きました。

 もう、自殺すると決意したのに、アランの目は、ねちこく、ええ、それはねちこく女の姿を追います。

関係のあった女たちがアランを夫に選ばなかったのがわかるような気がします。街で見かける女すべてに視線をからませる。

アランは自己愛の塊です。それが富裕層ならばのうのうと自己愛、自分に都合のいい物語の中で年老いるまで生きていけるのでしょうが、アランは自分への憐憫すら嫌気がさしているよう。それでも女のぬくもりを求めてやまない。

大層、気むずかしい(はっきり言えば面倒くさい)男なのですが、ルイ・マル監督はそんな男を描き抜く。

そのねちこさがこの映画の芯にある微熱のような熱さになっていて、観ている方も思い入れもしないが、アランを一蹴する気にもならない。

 誰もが愛されたいと思う。誰かを愛したいと思う。若かった時はなんでもできるような気がする。自分は特別な存在として誰かと関係できると思う。しかし、それに絶望してしまったとき、自分の年齢を受け入れられないまま、宙ぶらりんのまま生きていくのは息苦しくてたまらないでしょう。

ある女性が「あの人は不幸なだけ」と少々つきはなしたように言いますが、全くもってこんな不幸な男はいないかもしれません。

アランを見つめ、追い続けるカメラの視線=観客の観る方向がひとつになるのです。

 この映画ではサティの「ジムノペティ」がずっと流れ続けていて、エリック・サティが流行ったそうです。

わたしが学生の時、映画研究会で8ミリ映画を撮る学生は、もう、この「ジムノペティ」が大好きでもう、飽きるほど使われていました。

わたしは、まだ学生が作る8ミリフィルムにサティの音楽は合わないなぁ、と思っていたのですが、その大元となったこの映画を観て、初めていいと思いました。

さらりとしたようで、なんとなくこの映画のねちこさにぴったりなのです。このくらいやらないとサティの音楽は活かせないかもしれない。

ちなみにこの映画の助監督は、後に『ブリキの太鼓』を撮ることになるフォルカー・シュレンドルフでした。

人間へのからみつくような視線ってそういえばあるなぁ、と勝手にこじつけてみました。

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