カナリア

カナリア

Canary

2004年11月20日 有楽町朝日ホールにて(第5回東京フィルメックス)

(2004年:日本:132分:監督 塩田明彦)

これは明らかにオウム真理教をモデルにした設定で、たくさんの人が知っている事件がきっかけ、となっていますが、カルト宗教集団を描いたものでもなく、その事件を追った映画でもないです。あくまでも異常な環境ということから起きるその後の物語。

母の意志で否応なくカルト宗教集団、ニルヴァーナに入信させられ、教団の施設で生活をしていた12歳の少年、光一(石田法嗣)はテロ事件の後、施設に入れられているが、脱走する。

母は教団の最高幹部となり、今は指名手配されている身、祖父は幼い妹だけ引き取り、兄の引き取りは拒否したため、光一は妹をとりもどし、また、母を捜そうとする。・・・ここまでが物語の設定部分。

映画は脱走して田んぼの中を走る少年を映し出す。そして出会ったのが、援助交際をしている12歳の少女、ユキ(谷村美月)。

家に戻りたくないユキは光一についていくことになり、2人は東京へと向かう。

この少年、光一を演じた石田法嗣はとても無口な反面、意志の強さを見せたり、戸惑いを微妙な表情で見せたり、また子供らしさと異常な環境で培われてしまった独自の世界観というものを、同時に見せたりとても上手いのです。

また、旅の道連れとなるユキを演じた谷村美月は、逆に饒舌でべらべらとよくしゃべる。言いたいことはぽんぽん言うし、文句も不平も言うけれど、結局光一に連れ添うしかない、という孤独感が切ないのです。よくしゃべる、というのは本音を言うのではなく、しゃべってもしゃべってもまだまだ言い足りないことがあって、本当に自分が言いたいこと、それが自分でもよくわからないからだと思います。対照的な2人です。

この2人は目的はあるけれども、大人たちから常に隠れて逃げなければならない、という状況なので、2人はよく喧嘩をするし、もう、あたしは知らない!おまえは帰れ!と口では言うけれども、逃げるときは、無意識に手をつないで走って逃げる・・・そういうシーンがとても多いですね。それがとても印象に残りました。手をつないて逃げる・・・という「相手を連れて行く、置いていかない」という気持ちが語らなくてもよくわかる絵になっています。

光一もユキも「置いて行かれた子供」ですから、大人なんて・・・という気持ちがあるけれど、まだまだひとりでは生きていくことはできない。

これはロード・ムービーでもあるし、家族の新しい形を描いたものでもあるし、子供・・・といってももう自分なりの判断がある程度出来る子供が、自分で自分の道を選ぶ、そういう映画だと思います。

是枝監督の『誰も知らない』と『ディスタンス』に通じる世界なのですが、カメラマンが同じなんですね。

だからフィクションながら透明感のある長い手持ちカメラのドキュメンタリー風の映像がたくさん出てきます。

オウム真理教の信者の家族を実際取材することは不可能で、わずかな資料から、監督が想像して考えたストーリーだそうですからやはりオウムがどうのこうの、という見方は避けたほうがこの映画を堪能できると思います。

また映画は、少年と少女のその後を描きませんが、監督は最初は2人がその後どういう10代をすごし、20代を迎えるか、そこまで脚本として考えたそうですが、10代は現実的なつらいことが多くてもでも20代になれば新しい世界に入っていくという結果にたどりついたとのことで、描かれなかった未来はこの映画のラストシーンに凝縮されています。

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更夜飯店

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