メゾン・ド・ヒミコ
2005年8月30日 渋谷シネマライズにて
(2005年:日本:131分:監督 犬童一心)
犬童一心監督が、大島弓子の漫画に魅了されていて、過去『赤すいか黄すいか』『金髪の草原』と映画化してきて、この映画もベースにあったのは『つるばらつるばら』だというのはよくわかるのです。
1982年の池袋文芸座で観た自主上映に近かった『赤すいか黄すいか』で、すでにもう大島弓子の漫画の残酷さと性というものを取り上げていて、他のかわいい少女をかわいく遊ばせる映画青年自主映画の中では異質な存在でした。
大島弓子の漫画は、女の子の持つ残酷さや嫌な部分、特に性にまつわる女の子独特の不快な物、そしてそれを理解できない男の子というものを、独特の空白で描き出し、橋本治に「空白の魔術師」と言われております。(参考書:『花咲く乙女のキンピラゴボウ』橋本治著)
自分と母を見捨てて、ゲイになり今は、ゲイ老人の為のホーム、「メゾン・ド・ヒミコ」で癌で死にかけている卑弥呼(田中泯)がお金の為にしぶしぶホームを手伝う娘、沙織(柴咲コウ)にひとこと言う言葉・・・そしてその言葉に返す言葉もなく身震いして動けなくなる沙織の手のふるえ。
驚きと嫌悪と怒りが爆発することなく、ぶるぶると身をひく沙織のこの表情と体の反応・・・ここにこの映画の真髄を観たような気が(私は)します。
主人公沙織の柴咲コウは、ひとことで言うと暗い女です。まだ24歳なのに借金を背負い、ゲイである父を恨み、金に困り、仕事も金の為にだけやっているという投げ出しぶりがこれでもか、と出てきます。だから笑顔で明るい可愛い柴咲コウを期待した人は驚くと思います。
ノーメークに近い顔、しかもそばかすまで描いて仏頂面。
卑弥呼の若い愛人の春彦(オダギリ・ジョー)。「愛なんてあるものか、あるのは欲望だけなんだよ」と吐き捨てるように言う。
沙織と接することができない、好きなんて簡単な気持ちで、女性に接することができないし、愛する人は死の床にある、そのむなしさをいつも表情のどこかに見せている。
そしてベットに横たわり、何も言わない卑弥呼。卑弥呼は何も言わないけれど、その存在だけで、周りを圧倒させる過去をまざまざとみせつける。この映画で一番魅力的なのは、「何もかもわかってしまった、だからこそ何も言わない」卑弥呼です。
しかし、なんという透明感と明るさでしょう。「メゾン・ド・ヒミコ」はいつも明るい光に満ちていて、ホームの住人たちもそれぞれの過去や傷は持つものの、それを受け入れて過ごしている。
もう、人と人の間には壁があって、その壁は破れないもの、なくすことは出来ないもの・・・なのに、この映画は、その壁の隙間からお互いの光を見つめるような、視線がずっと続いていて、観ていてとても気持ちいい。とてもつもなく気持ちいいのです。
仏頂面の沙織が笑う時、人の事など構っていられない余裕のない沙織が笑う時、それがどんなに美しいか。
卑弥呼はそれがわかっているから、何も言わず、沙織にぽつんと一言だけ言うのでしょう。
確かに、卑弥呼は家族というものとは無縁な人なのに、家族を持ってしまい、その責任を果たさなかった。だから娘に嫌われて当然なのです。卑弥呼だけでなく、他の人々も孤独を抱えている、しかし家族というものも同時に存在する。
「メゾン・ド・ヒミコ」の人々と対照的なのは、沙織が働く塗装会社の人々。特に専務の細川(西島秀俊)は、孤独で繊細なホームの人々とは、住む世界が違うのです。しかし、そういう人たちが混在しているのが社会という枠なんでしょうね。
西島秀俊は、『帰郷』とはがらりと変わった俗な人物を演じていました。
オダギリ・ジョーが常に白い服を着ているのに対し、西島秀俊は基本的には黒いスーツやシャツという、聖と俗の対称のような色使いが印象的。また、ベッドに横たわる卑弥呼のゴージャスなローブとその下のしっかりとした体、しかし病んでいるというのもわかるのですね。凄い。
また音楽を細野晴臣が担当していて、劇中歌、ドヴォルザークの『母が教え給いし歌』の哀しくも美しい旋律、または『また逢う日まで』を歌って踊る沙織や春彦、ホームの人々のつかの間の至福感。
そんなゆがんだような、俗っぽいような、聖なるもののような・・・毒のある世界を独特の視線で切り取ってみせるこの映画、見終わった後、日がたつにつれでだんだん、私の中で存在が大きくなっているのです。
更夜飯店
過去持っていたホームページを移行中。 映画について書いています。
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