完全な一日
A Perfect Day
2005年11月24日 有楽町朝日ホールにて(第6回東京フィルメックス)
(2005年:レバノン=フランス:88分:監督ジョアナ・ハジトゥーマ、カリル・ジョレイジュ)
コンペティション作品
去年のフィルメックスでレバノン映画、『戦場の中で』というのを観ました。
この映画の戦場とは、ずばり、家庭のことです。
この映画でも「家庭(または家族)の絆が深いあまりの息苦しい拘束」というものが描かれています。
主人公の青年、マレクは工事現場で働く青年。
父は、レバノン内戦時、行方不明になってしまい、母と2人暮らしです。
最初、朝、マレクが眠っているのを起こす母から映画が始まりますが、この「息子を起こす母」というのが、「こら~、起きなさ~~い!!」ではなくて、まるで初々しい恋人同士が朝を迎えちゃいました・・・みたいな「ねぇ、起きて・・・」という起こし方。
だからベッドの脇で「起きて・・・」というのが母親だっていうのが、最初わからなかったのです。年上の恋人?などと・・・思ってしまいました。
これが、行方不明の父を待ちわびる日々に決着をつける・・・ある一日の始まりです。
マレクという青年は、働くかたわら、去ってしまった恋人のゼイナの事を追っかけています。
ベイルートの車の渋滞の中をゼイナの車を追いかけるマレク。携帯電話を鳴らしても、ゼイナは無視して、渋滞を抜けるとなるとさぁ~~と走り去ってしまう。渋滞の中に取り残されてしまうマレク。
マレクは睡眠障害を持っていて、睡眠中無呼吸症候群で、息が止まってしまい、十分な睡眠がとれなくて、その分いつでも眠くてどこでも眠りこんでしまう。
うるさい工事現場でも、夜の重低音が鳴り響くディスコでも、眠り込んでしまいます。
この映画は、監督2人によると「依存の映画」だという事です。
父不在の家庭で、母は息子に家長と息子の2役を押しつけ依存している。マレクの携帯をやたら鳴らす母。
マレクは、恋人ゼイナにふられてもしつこく追いかけ依存、また、ベイルートの夜というのが、妙にざわめいていて、落ち着かない様子・・・それは人々が戦争中の記憶からベイルートの人々は戦争に依存しているのではないか?という視点。
それから、この映画ではやたら人々は煙草を吸います。
マレクの家の前には老人が2人、いつも座っていて、その人たちと煙草のやりとりをするのがマレクの日課。「体に悪いってわかっているんだけど、やめられないんだよねぇ~~~」って笑いながら煙草を吸う老人たち。
行方不明の父を、死亡と見なして、家族が死亡届を出し、法的な手続きをする・・・母はどうしても納得いかない様子だけれど、マレクは母をせきたて手続きをとるのです。
その夜、マレクは母を家の置いて街のディスコに行き、ゼイナとやっと話をする・・・しかし、ゼイナは拒絶かと思うと受け入れ、また突如、去ってしまう。
マレクは、車の中に捨てていったゼイナのコンタクトレンズをはめて(!)夜のベイルートの街を車を走らせますが、このシーンが美しいと同時に怖い、怖い。街の明かりがあわないコンタクトのせいでぼやけてそれはそれは幻想的な映像ですけれど、ほとんど自殺行為。
朝を迎えたマレクは、海辺の道を1人走って家に戻る・・・そこで映画は終わっています。
依存を抱えたまま、家族との絆を切ることなく、個人が自由に生きる術を探す・・・これが、この映画のテーマです、ときっぱり言い切る監督2人は実はまだまだ30代の若い監督さんでした。
カリル・ジョレイジュ監督の叔父が実際、内戦時行方不明のままだ、ということから撮る事になったということですが、内戦の傷をかかえたままのレバノンの街の姿というのが、とても綺麗にクリアに映し出されていて、これ、といった声高な主張は感じられないのですが、完全な一日というタイトルはとても皮肉で正しいタイトルのように思えます。人も街も完全な解放などまだまだ先なのか、全くないのか・・・漫然とした空気の中に、ちょっとした区切りをつける・・・その小さな区切りに目をこらしているような視点が好きです。
更夜飯店
過去持っていたホームページを移行中。 映画について書いています。
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