疾走
2005年12月22日 シネスイッチ銀座にて
(2005年:日本:125分:監督 SABU)
少女は壁に「誰か私を殺して下さい」と書く。
少年はその下に「誰か一緒に生きて下さい」と書く。
そんなこと書かなきゃならない中学生たち。
決して、10代の青臭い反抗からではなく、この映画は2人が本当に追いつめられていく様を駆け抜けるように描きます。
そういう意味では、正に疾走なのですが、主人公たちは最初は走っているけれども、最後はもう、走ることが出来ない。
そんな切なさとささやかな救いが余韻となって残る映画です。
SABU監督は前作の『幸福の鐘』では、走るのではなく、ひたすら歩く男(寺島進)を描きました。しかし、この男は最後になって全速力で走る。「走る」というのがSABU監督映画の特徴なのですが、この映画はひたすら走るように墜ちていくのでした。
それが大人ではなく、中学生だ、というのがとてもショッキングです。
10代は良かった、甘酸っぱい思い出だ・・・・そんなノスタルジィは全くない。
主人公のシュウジ(手越祐也)は、ごく普通の一家の次男。兄、シュウイチ(柄本佑)は成績優秀の優等生。両親はそれが自慢。弟もそんな兄をまぶしく見ている。
しかし、兄、シュウイチは、大人にとっては「優等生」なのだけれども、弟に見せる顔は醜い、俗物。その俗物ぶりっていうのが、細かく描き込まれていて、兄を演じた柄本佑のいやらしい10代のリアルさにびっくりします。
本当にこういう子はいたのです。笑顔の仮面をつけてその下は悪魔のように赤い舌をチロチロさせているような子供。それにコロリと騙されている親や教師のだらしなさも深く描かれます。
シュウジは「沖」と「浜」という差別のようなもののある所に住んでいる。
おとなしくて、どんなに兄が嫌な面を見せてもなんとか信じようとする、抑圧された子供です。
差別されている「沖」で出合う人々。鬼ケン(寺島進)とアカネ(中谷美紀)のヤクザなカップル。
「沖」で教会を建てる神父(豊川悦司)。その教会で出合った少女、エリ(韓英恵)。エリは両親が自殺したことから、世の中を斜に構えて見ているクールな女の子。
シュウジとエリは同じ中学のクラスになりますが、この中学という牢獄。
エリは、教師に反抗的で、クラスの子に向かってハッキリ「嫌い」と言い放つ。当然、エリは孤立しています。
しかしシュウジは、友人達となれ合い的につきあっている。
しかし、シュウジの家は、兄によって崩壊します。行き場のなくなったシュウジに残されたものは何もない。あっという間に姿をくらましてしまう親。
そんな時、手をさしのべるのが神父、宮原なのですが、宮原は弟(加瀬亮)が殺人の罪で服役中で、弟を罪に追いやってしまった罪悪感を持っています。
シュウイチとシュウジという兄弟と、宮原と弟という兄弟の逆転ぶりが途中から、もの凄い勢いで回転しはじめます。
シュウジの為に・・・と宮原は、刑務所にいる弟に会わせますが、弟は「俺はお前で、お前は俺だ」と決定的なダメージを与える。
親でもない、教師でもない大人から抑圧され続ける子供の痛々しさっていうのは、暴力的なものではなく、むしろ、言葉なんですね。
言葉は、人を簡単に傷つけることが出来る、大人になる為には子供はそれに耐えて生きていかなければならない。そんな子供の姿がこの映画の芯だと思います。
シュウジを演じた手塚祐也は、ジャニーズのアイドルでありながら、墜ちていく役を体当たりでがむしゃらに演じています。
エリを演じた韓英恵は、逆に表情のないクールさ、冷たさを持っている。この温度差というのが凄いなぁ、と思うわけです。
SABU監督の初めての原作の映画化で、原作は重松清。
疾走というのは、いつまでもいつまでも長くは続かない。短い「10代」を全速力で駆け抜ける・・・そんな切迫した切なさが面々と伝わってくる映画でした。
更夜飯店
過去持っていたホームページを移行中。 映画について書いています。
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