あおげば尊し

あおげば尊し

2006年1月27日 シネスイッチ銀座にて

(2005年:日本:82分:監督 市川準)

私が子供の頃、学生の頃を思うと学校で「死」について教えてくれた、またはそういう授業を受けた覚えはありません。

子供の頃に母親に「死んだらどうなるの?」と聞いたら、「なんにもなくなるのよ」と、言われて、恐怖心でいっぱいになってしまったことを覚えています。やはり、子供にとってはまだまだ、死というものは遠いものだったのでしょう。

私に死を教えてくれたのは、飼っていたたくさんの動物たちです。犬、兎、小鳥、そして猫。

人間よりも早く死んでしまう動物たち。死ぬたびに泣いて、悲しんで・・・死体を見るのがつらかったのですが、それは「気持ち」であって、理路整然と言葉で表す事はしなかったし、しなくても感覚で覚えるもののような気がします。

この映画では小学校の先生(テリー伊藤)の担任しているクラスの子供が、インターネットで死体のサイトを見て、それがどんどん周りの子に興味が広がってしまうのを、どう説明していいか・・・「とにかく、やめろ」としか言えない大人。

私も子供から真っ向に、「どうして死体を見てはいけないんですか?」と聞かれたら、はっきりとは答えられないと思います。

また、末期癌の父を自宅で介護することにした教師は、妻(薬師丸ひろ子)の言葉にはっとします。

「本当に悲しいと思わない人は死に向き合ってはいけないと思う」

テレビのニュースで、映画で、本で、漫画で、ゲームで・・・死はたくさん描かれるけれど、鈍感で、死は非日常的な事になり、自分の死になると、誰にでも訪れるものだからでしょうか、目をそらし、考えないように無意識に敏感になる人の気持ちもある意味、健康的です。

時々、「自分が老いて、人の世話になるようになったら自殺するから」と言う人に出会います。

何気ない会話の中で、そういう「意志」を聞くことがあります。

ああ、この人は、死がわかっていないな・・・自分勝手だな、と私は内心思います。

実際、そういう自分勝手な人に限って老いると、死にたくない、死にたくない・・と騒いで、周りに迷惑をかけるような気もします。

課外授業として、自宅に生徒を招いて父の介護の手伝いを・・・と言っても、一回で、もう来なくなる子供たちというのもある意味、まだ死がわからない健康さ、なのかもしれません。しかし、死というものをきちんと誰かが教えないといけない。

実際、「死についての教育」というものは皆無でしょう。戦争の事は教えても、死というものは教えない。

市川準監督は、他にも家族の問題、介護の問題、教育の問題・・・をさりげなく深く短い時間に描き出していますが、日本の歳時記のようなものを撮りたかったと言うように、雲の流れる空、まだ芽の出ない梅の木、そしてその木々の向こうにまた青空があり、雲が流れていく・・・という風景をふんだんにとりいれています。

テリー伊藤が演じる教師は、突拍子もない、ヒーローのような先生ではなく、普通の男性で、家族や仕事を大切にしているけれども、迷いは隠せない・・・中年になっても、惑い続ける等身大の男性でした。

またその家族たちも同様です。特に金持ちでもなければ、貧乏でもない。家の庭に咲く梅の木で季節の移り変わりを表現して、ある答えを出しています。

それは言葉で説明するよりも映像の力で体感するしかない・・・やはり映画作家として市川監督は大変優れていて、豊かで冷静なまなざしが感じられます。

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