善き人のためのソナタ
Das Leben der Anderen/The Lives of Others
2007年3月24日 渋谷シネマライズにて
(2006年:ドイツ:138分:監督 フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク)
ドナースマルク監督のインタビューで〈映画『グッバイ!レーニン』の歴史の描き方には納得いかなかった。あの描き方は行き過ぎです〉というのがとても興味深かったのです。
なぜならこの映画はとても大人の映画だけれども、監督は1973年生まれ・・・今、33歳という若さだからです。
33歳が脚本を書き、描く世界とは思えない深みと痛みと救い。
東西ドイツの統一をコメディタッチでほのぼのとした情愛もので映画にする手もあったのでしょうが、実際はどうだったのか、この映画には過去と決別できずにいるドイツの姿が外国人であるわたしたちにも見えるように作られています・・・日本が平成になったのとほとんど同時に統一されたドイツ・・・日本は平成をきちんと振り返っているだろうか。
非常に大人びた映画といえましょう。
多くの映画の作り手たちが「子供心を忘れない永遠の少年」を売り物にしているのに反して、監督は初監督とは思えない成熟ぶりをじっくり見せる映画を作りました。
アメリカ・アカデミー賞外国映画賞だけでなく、ゴールデン・グローブ賞他、数え切れない程の映画賞を受賞しています。
賞をとったから面白い映画か、というとそうとも言えないのですが、「たくさんの人から選ばれた映画」とわたしは思いたいです。
旧東ドイツ。秘密警察、シュタージは反体制の人物たちを検挙、逮捕する為には何でもする、というのが冒頭描かれます。
過酷な尋問に拷問。そしてシュタージの講義をする主人公のヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)は、「行き過ぎた拷問では?」と疑問を呈する学生の座席表に、×をつける・・・・といったあたりの細かいけれど、さりげない描き方が上手いです。
そして、劇作家のドライマンという人物が反体制ではないか・・・という疑いから、ヴィースラー大尉は部屋中に盗聴器をしかけ、監視カメラを設置し、その家の屋根裏部屋で、ドライマンの私生活の監視を始める。
そして、恋人の女優との私生活から何から何まで、タイプで記録する。そのタイプで記録・・・というのが後々の伏線になります。
劇作家のドライマンの周りは、反体制ともいえる芸術家たちが多い。
その誰もが「シュタージから監視されてないか?」と心配するところなど、どんなに監視ということが人々の中に恐怖として存在していたかがわかります。
しかし、ドライマンと恋人の生活は精神的に豊かなもので、ヴィースラー大尉の殺伐とした私生活にはないものばかりです。
だんだん、その豊かさに心が動いていく・・・そして、監視して告発するはずのドライマンと恋人を監視から見守る・・・ということに変わっていくのです。
見る、観る、のぞく、見守る、監視する・・・・人間が目ですることはこんなにもたくさんの意味の違いを持っていたのだなあ、と感心します。
そして東西ドイツの統一。
ヴィースラー大尉はシュタージがなくなり、劇作家として成功しているドライマンとは正反対の立場になってしまう。
ここで興味深いのは、ドライマンが申告すれば、自分が監視されていた記録を自由に閲覧できる、ということです。
こういう経験は、ショックですね。
過去がいつまでも忘れられない、過去と決別できない何かしこりが残っていることがよくわかります。
監視していた者と監視されていた者・・・の距離というのは、近づいたりはしないのですが、この映画はラストの一言で、その距離を埋めてしまうという離れ業をしています。
映画の間、一回も笑わない、無表情なヴィースラー大尉に対して、表情豊かなドライマンとの対比のさせ方。
そして、忘れてはいけない過去もある、ということを声高にでなく、音楽のように描き出した人間ドラマであり、歴史ドラマだと思います。
更夜飯店
過去持っていたホームページを移行中。 映画について書いています。
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