男の花道

男の花道

2008年1月26日  東京国立近代美術館フィルムセンターにて(生誕百年 映画監督 マキノ雅広(1)

(1941年:日本:73分(短縮版):監督 マキノ正博)

 マキノ監督は早撮りで有名だそうですが、1941年だけでこれだけたくさん・・・って思いますね。

本当はもっとたくさんあったのでしょうし、この映画、個人的にとても好きなんですけれど、残念ながら短縮版。

 『家光と彦左』のコンビ・・長谷川一夫と古川緑波のコンビなのですが設定は大きく違います。

長谷川一夫は、上方歌舞伎の女形、三代目中村歌右衛門。古川緑波は、貧乏人から金はとらない・・・という筋を通している眼医者。

実は歌右衛門は、これから江戸で・・・・という矢先、眼を悪くして失明寸前。

それを救うのが、眼医者の土井玄磧。

 金ならいくらでも出しますから・・・・というのに激怒する玄磧。

このひねくれぶりというのが、上手いですね。

役者生命を救われた歌右衛門が、恩を返す・・・・のですが、歌舞伎の役者は、あくまでも舞台であって、いくら大名から呼ばれても「お座敷で芸はしない」ときっぱり言い張る歌右衛門。

 しかし、いくら貧しい人からお金をとらないといっても生活のために大名の主治医になった玄磧は、宴席で芸をやれ・・・と言われる。

 自分は医者であって、芸人ではない、という誇りと頑固さで、「代わりに踊る人を探せ、さもないと切腹」までいってしまい、歌右衛門に連絡・・・・でも、歌右衛門はちょうど舞台の最中です。

 さて・・・・恩を忘れない歌右衛門が必死の思いで駆けつけるスリリングさ・・・そして、大名に「お前は座敷では踊らないと申したではないか」と当然、言われてしまいます。

 このとき、歌右衛門が

「誇りとはいつか捨てるもの。今がその誇りを捨てるときなのでございます」

ときっぱりと言います。

うーん、この台詞にぐっときてしまいましたね。

 歌舞伎役者としての、医者としての「誇り」

思い返してみると、ずいぶん、自分は誇りなんだか、見栄なんだか、虚栄心なんだか、区別がつかないようなものにがんじがらめになっていて、そのために嫌な思いをして、結局、捨ててきた(それもかなり未練たらしく)のですが、また、新たな虚栄心などが次々と出てくる。

それを、きっぱりと「誇りとは捨てるもの」とバッサリ、刀で斬られたような気持になりました。

それを言う、長谷川一夫の口調というか、声音というのがまた迫力で。

 そうなんだ、誇りはいつか捨てるときが来るんだ・・・・・・・・・・

誇りにしがみついているようでは、そんな自分に気がつかないで天狗になっていては、いつまでたっても同じことの繰り返し。

この歌右衛門の潔さが、爽快であり、目から耳からウロコがぽろぽろ・・・

わたしがこの映画をとても気に入っている所以です。

 映画でも本でも、笑ったり、泣いたり、いわゆる感動したり・・・あるのですが、それを超えた・・・・「はっと気がつく」ということを体験できた映画です。

滅多にないんですね、こういう経験。

こういう事を、説教くさくなく、いやらしくなく、すらり・・・・・と描けるということも驚きです。

長谷川一夫の女形ぶりの見事さと古川緑波の偏屈だけれども、筋を通すお人柄・・・・そして2人の間にある「信頼関係」も綺麗です。

 まぁ、そして、何よりも女形として踊る長谷川一夫がまたねぇ、きれいなんです。ほれぼれしてて、ずっと観ていたいと思う踊り。

いかにも金かけました、という大作ではないのですが、いつまでも言葉や踊りが脳裏に焼きつく映画、というのは、観て本当に良かったと思うのです。


****追記****

「誇りとはいつか捨てるもの。今がその誇りを捨てるときなのでございます」

これはマイ・ベスト台詞ではないか、と思うくらいこの映画は好きです。


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