クスノキの匂い、ジャスミンの香り

クスノキの匂い、ジャスミンの香り

Smell of Camphor, Frangrance of Jasmin

2004年6月4日  国際交流基金フォーラム(イラン映画2004)にて 2000年イラン:93分:監督 バフマン・ファルマナーラ

主人公はファルマナーラ監督自身が演じており、役どころも(監督そのままの姿といっていい)国の規制により20年近く映画監督活動が出来ないでいる1人の老いた映画監督です。

日本のTV局からのオファーで「イランの葬式」のドキュメンタリー制作の話がきた、という所から映画は始まりますが、監督の周りには常に「死」の影が落ちています。死んだ妻の墓、自分が入ることになることになる墓にこだわり、監督はいつの間にか「自分の葬式準備」に没頭するようになります。

仕事が上手くいかない人生と妻に先立たれた寂しさ、何の希望も見出せずにいる自分。病気が発見されても死にとりつかれた監督は治すことよりも「自分が死んだ時」に思いがいってしまうのです。

とても幻想イメージ的な映像をじっくりはさみながら、クスノキの匂い=樟脳(しょうのう)=死にとりつかれていく様子が綴られているので娯楽的な要素はないかもしれません。

しかし、夢なのか、妄想なのか、自分の制作しているドキュメンタリーがいつの間にか「自分の葬式」になっていて、それは自分の意にそわないことばかり。このシーンで、カメラを中心に置いてぐるぐると360度回転して「葬式」を見せながら、「こんなはずではない」「こんなものは望んでいない」と叫ぶのですが葬式はどんどん進行してしまう。

しかし息子の嫁、ジャスミンに子供が産まれた、という一本の電話でその葬式はいきなり終わり、監督は家の庭の池に石を投げます。

クスノキ=死、ジャスミン=生というコントラストが細い糸のように最初から張ってあったのだと、最後までみるとわかるのです。

上映後の来日した監督の言葉で「自分の葬式が上手くいかないのは、思うように映画をとらせてくれなかった国への皮肉です」とあり、「石を池に投げるのはカフカの文章通りのこと、人生には水に波を立てるときも必要なんです」そして「匂い(smell)と香り(fragrance)はきちんと分けたいと思う」というのにはなんともいえない知性が感じられました。


*****追記******

なつかしいです。アラブ映画祭。私はこの年一回しか行かなかったのですが、こういう映画祭は今はやってるのでしょうか。思えばこの年は色々な国の映画を観ていました。楽しかった。

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