おそいひと
Late Bloomer
2004年11月21日 有楽町朝日ホールにて(第5回東京フィルメックス)
(2004年:日本:83分:監督 柴田剛)
監督の意志としては、(嫌な言葉ですが)健常者と障がい者の「へだたり」を描きたかったということらしいのですが、そのへだたりを描く、描き方、出し方、見せ方・・・がとても冷たい、突き放した視線です。
もちろん、健常者には障がい者の本当の気持ちなどわからない部分が多いのでしょうが、レポート書くために介護ヘルパーの体験をしにきた女子大生に恋をしてしまい、あっけなく蹴飛ばされる・・・そして殺人衝動にかられてしまう・・・へだたりがないのなら、殺人の罪を犯すのもへだたりないだろう、性的な悩みも同じだけど障がい者だとこうなるんだよ、みたいなとらえ方、突き放し方なんですね。
知識も経験も指導もなにもないのに、いきなり介護ヘルパーやります・・・なんて・・・案の定、無知ゆえに相手を傷つけるという部分。女子大生が住田さんに「普通に生まれたかった?」なんてと聞くとその答えはキーボードで「おまえを殺す」
そういうやりとりの中で、現実にあるへだたりを描こう・・・とするならば、登場人物たちをもっと描きこむ必要があると思いますが、ほとんどパンクロック的な不安定な映像に流れてしまい、きっかけとなった女子大生も嫌な思いをしたらさっさと逃げ出してもう出てこない。
モノクロで光が炸裂して、パンクロックががんがん流れる映像を見せたい気持ちがあるのでしょうが、それだったらこういう設定にこだわる必要はないところ、自分たちはへだたりってものをよくわかっているんだぜって自己完結の勢いだけで映画は進んでしまう。
これが現実なんだよってぽ~んと放り投げてそれでおしまいにしてしまうラスト。
別に障がい者を描く映画すべてを美談にする必要はないけれども、そこらへんのさじ加減については、作り手の気持ちの持ち方が映画にありありと出てしまう。また、どんなに事情に通じていて、映像の技術があっても、他者に見せるという気持ちがなければそれは観客には通じません。
自分の主義、主張だけでは、技術の見せびらかしだけでは映画はだめなんですね。
更夜飯店
過去持っていたホームページを移行中。 映画について書いています。
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