山猫

山猫

Il Gattopaldo

2004年11月11日 新宿 テアトルタイムズスクエアにて

(1963年:イタリア=フランス:187分:監督 ルキーノ・ヴィスコンティ)

ヴィスコンティ監督の映画でいうと、この『山猫』の前が『若者のすべて』(『ボッカチオ』はオムニバスの一編)で、後が『熊座の淡き星影』ということになりますね。

墜ちていく者を描かせたらもう、ヴィスコンティ監督でしょう、というのは後期のドイツ三部作で明らかなのですが、名門貴族の出身の監督も若いころはレジスタンス活動していて逮捕されたり・・・というただの貴族様ではない、そこら辺が一番よく出ているのがこの『山猫』かもしれません。

1860年のイタリア統一戦争で、貴族など特権階級の時代が終わりを告げそうになる不穏な空気というのが、冒頭のシーンで描かれています。シチリアの公爵一家が静かな祈りを捧げている時に外が騒がしい・・・庭に兵士の死体がある、という騒ぎで、静かな祈りの時間は即、不安の予感をはらむことになる。

しかしサリーナ公爵(バート・ランカスター)は冷静で、誇り高き貴族の生活は一見何の変化もないようにふるまう。しかし心中はもう自分の老いをしっかり感じており、革命戦争のあとの新しい時代を知恵と器量と美しさと野心でもって「新しい貴族」として順応していけるのは、自分の息子よりも甥のタンクレディ(アラン・ドロン)であると心得ています。

このタンクレディのアラン・ドロンが美しいだけでなく、沈みがちな一家がぱっと明るくなるような陽気さと若さ、義勇軍に参加してからもしたたかに立ち回り出世していく野望、厳しい世間の波に上手く乗っていける賢さ・・・が全身からオーラとなって出ているのですね。

しかし、タンクレディにないものがある。それは身分は高くても金がない、そしてその将来を輝かす最大の要素であるふさわしい妻の必要・・・で出てくるのが、身分は多少低くても美しさと野心に充ち満ちた貴族の娘、アンジェリーナ(クラウディア・カルナーレ)

このタンクレディとアンジェリーナのカップルが、若さに野望と野心にあふれ、実にお似合い・・・外見が美男美女だけでなく、その内に秘めるものが全く一緒なのですね。自分の娘よりも将来タンクレディの立場にふさわしい女性であると即座に見抜いて、巧みに後押しする老公爵の計算高さ。

ヴィスコンティ監督の後期になると老いたもの、栄華を窮め尽くしたものはひたすら墜ちに墜ちていくのですが、この映画は、栄華を極めた者が新しい栄華に息を吹き込んで、静かに引いていくその美学、なんです。

『若者のすべて』が最後に末息子の姿に将来を託したようでもあり、『熊座の淡き星影』でもう変わることができない、滅びていくしかない一族のようでもあります。

後半1/3はタンクレディと婚約したアンジェリーナが社交界デビューする大舞踏会。

ここでも若い2人は周りに秀でている美しさをアピールするのですが、サリーナ公爵は一曲だけアンジェリーナとワルツを踊る。周りの人が踊りをやめて見つめてしまうようなワルツには栄華を極めた公爵バート・ランカスターの最後の威厳というのが凝縮されています。

まだまだ自分にない威厳を見せつけられて、こわばる若いタンクレディの表情も逃しません。

そして1人静かに舞踏会場を後にする公爵の後ろ姿・・・ヴィスコンティ監督自身が自分の老いを感じ始め、バート・ランカスターにその思いを託した・・・とも言える静かで厳かなラストです。

3時間7分のこの新旧交代のドラマは登場人物少なくても、どこを切り取っても名画のような素晴らしい構図の絵の連続、贅沢を極めた美術、衣装、窓から見える遠くの風景の美しさだけでも一枚の絵のような完璧さ。

このような映画は観るというより、体感、体験するという方が適切な表現かもしれません。

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