サマリア

サマリア

Samaritan Girl

2005年3月11日 銀座ガスホールにて(試写会)

(2004年:韓国:95分:監督 キム・ギドク)

ベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)受賞。

キム・ギドク監督というのは、自分の考えをはっきりと持っていて、周りになんと言われようが自分の世界を貫き通すという姿勢がどの映画にも見られるのです。

トップスターを使った興行成績とか・・・そんなものには一切背を向けて、自分の世界をきちんと作り出す。それは「罪」という言葉以外は、様々な形を持って表現される、表現出来る、そんな頑固さと反対の柔軟さを持った監督です。

監督自身、映画というものは30歳になるまで観たことがなく、過去の国内外の映画には全く影響を受けていない、と明言しているだけあって、過去の映画になんとかつながりを見つけようというすれっからしの観客には手強い相手です。

常にその視線は厳しくそして色鮮やかで、媚びというものは全く感じられない潔さと頑固さ。

現実を非現実の境目をなくして、現実の厳しさはとことん追うが、どこからが非現実の世界なのか曖昧な世界を色鮮やかに作り出す・・・そんなことを特に好むようです。

この映画のキーポイントは、サマリアという言葉。今回はキリスト教的なイメージで「罪」「罪を贖う」「罪を背負って生きていく」・・・そんな現実の厳しい部分をとてもソフトな映像で作り上げました。

サマリアというのは聖書の中の名もなきサマリア人の女性のこと。イエスと出会い罪を意識することで生まれ変わったという、この女性はどちらかというと蔑まれた人物のこと。

ヨジンとチェヨンという2人の仲良し高校生2人は、ヨーロッパ旅行の資金集めになんの罪の意識もなく援助交際をしている。

援助交際をしているのはチェヨンで、ヨジンは連絡係と見張りという役割分担。

ヨジンは、少しうしろめたくてこんなことはやめよう・・・という気持ちを持っているけれど、チェヨンはあっけらかんと援助交際を楽しんでいる風で、とても仲の良い2人なだけに、ヨジンは時には嫉妬の気持ちにかられる。

しかし、そんなとき、チェヨンを失ってしまったヨジンは、「罪の意識と罪の贖罪」から、もっと罪なことをするようになる。

ヨジンの父は、あることから娘がしていることを知ってしまい、その「罪の大きさ」に驚き、悩み、またその娘の罪を贖う行動をする。

罪というのは自覚して初めて「罪」になるのだと思いますね。自覚がなければそれは罪ではない。しかし、罪に気づいてしまった者は、どうしようもなく墜ちていく。そこで出てくるのが贖おうという気持ちです。

それが後半、ヨジンと父の車での旅行で、父の贖罪の意識の方がどんどん重くなる。しかし娘には優しく、決して責めることはない。だからこそ父が娘の罪を贖うというつらさ倍増。

2人の少女が仲良く美しい風景の中で、遊ぶ姿の無垢さ、また、援助交際に使うホテルのどぎつい色使い、旅行に出たときの美しい自然の風景。川辺で車の運転を優しく教える父の姿と、ヨジンが見る父に殺される夢。どちらが本当のことなのか・・・それはわかりません。そしてヨジンはこれから先どうやって「罪を背負って生きていくのか」を暗示させるラスト。

とても主役の女の子2人が無垢で可愛らしく、あどけない。でもやっていることの凄さを全く感じていないということの衝撃がより大きいです。

今だけ楽しい2人の楽園。そんなものはあっけなくくずれてしまう。映像は色鮮やかで美しくてもそんな厳しい視線が貫かれているのはとても心痛むことなのですが、それが自分は「罪」を自覚している人間だという証拠のような救いを感じてしまいます。

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