シテール島への船出

シテール島への船出

TAXIDI STA KITHIRA

2005年11月3日 吉祥寺バウスシアターにて(特集テオ・アンゲロプロス)

(1977年:ギリシャ:140分:監督 テオ・アンゲロプロス)

この映画は『狩人』の後続けて観たのですが、たしかにロングショットではありますが、『狩人』に比べれば、1シーンの長さは短いです。

しかし、冒頭、ドイツ兵にいたずらして追っかけられる少年、というのが出てきますが、隠れた所で、「アレクサンドルみ~つけた、エレーニみ~つけた」という大人の声がかぶります。

これはこの映画の主人公、中年の映画監督アレクサンドロスの作っている自伝的映画の一コマなのだ、とわかる仕組みになっています。

また、アレクサンドロスは老人役のオーディションをしている。「私だよ」というひとことの台詞を言うたくさんの老人達。

しかし、コーヒーを飲んでいる所にラベンダー売りの老人が来る。この老人を一目見たアレクサンドロスは、この老人に興味を持ち、後をつける。

そして、映画はこの「ラベンダー売りの老人」だった老人が、昔の暴動でロシアに亡命して32年ぶりに帰ってきた父、スピロになる。

・・・船から降りてきた父は一言、「私だよ」

というようにこの映画は主人公の父帰る、の話ではなく、これは映画の中の映画なのだ、という二重構造を持たせているのですね。

だから、現実を厳しく描いているようでも、そこには「映画」というひとつの世界が、常にあるわけです。

母は父のかわりに投獄されても、ずっと父を待ち続けた。子供たちも十分母の事はわかっているけれど、亡命してしまった父の事はわからない。父は勝手だ、と妹は非難する。好き勝手にレジスタンス活動をして、ロシアに行ってしまって、家族を置き去りにしたくせに、今更戻ってどうするのだ。

しかし父はそれには何も答えない。そして昔暮らしていた山村で妻と暮らそうとするものの、村はリゾート計画に沸き立っており、スピロは結局行き場を失う。

シテール島というのは、映画の中では、アレクサンドロスの留守番電話に映画スタッフがロケハンにシテール島へ行く、という所しか出てきません。

シテール島というのは、父、スピロにとってユートピアなのか・・・しかし、もう行き場のない父は船出するしかないのです。

もう、過去を取り戻すことは出来ず、今という時代にも取り残されてしまう老いた者は、去るしかない。

そして今を生きている人々はそれをどうすることもできない苦さをかみしめなければならない。

船はシテール島へ行くのか、朝焼けの中をスピロはどこへ行くのだろうか・・・・最後の最後までやはり目をそらすことなく、人物を追うその瞳が鋭く、情け容赦ない。

しかし映像は、とても幻想的で美しい映像の数々です。父、スピロが住んでいた山村の木が、一本だけペンキで水色にぬってあったりしても、全く自然に映る。

政治的なものよりも、個人的な世界に向かっているような印象を受けましたが、それでもここに出てくる人々は結局は、ギリシャの歴史の中で抑圧された人です。そういう人への視線は、あくまでも冷静に平等なんですね。

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