恋の秋
Conte D'automne
2006年7月19日 日比谷シャンテ・シネにて(BOW30映画祭)
(1998年:フランス:112分:監督 エリック・ロメール)
エリック・ロメール監督の四季の物語、4部作とは、『春のソナタ』『夏物語』『恋の秋』『冬物語』です。
遅ればせながら、この四季の物語に魅せられて、次々と追って観たけれど、どうしても観られなかったのが、この『恋の秋』です。
春夏秋冬の順番ではなく、作られたのは、春→冬→夏→秋の順で、この『恋の秋』は最終章なのでした。
全てが恋の物語です。しかし、この最終章、秋では、若者ではなく40代の女性を中心に、大人の恋の機微や年に関係ない恋愛への初々しさと大人ならではの成熟した物の考え方・・・というのを、実にスムーズに微笑ましく綴っているのです。
この映画では、誰も死なない。誰も傷つかない。これみよがしな大恋愛は描かれない。
すべてが自然で、美しく、聡明でありながら、惑い続けて・・・そうして生き続けている人間というものの讃歌になっています。
讃歌、というとちょっと気恥ずかしいのですが、やっぱりこの映画は、讃歌なのだと思います。もう、讃え歌っている映画です。
しかし、その讃歌は時々、苦い味がする。
冒頭出てくるのは、イザベルという本屋を営む洗練された女性です。しかし、この映画の主人公はその友人で、40代で未亡人、今は畑で葡萄を作り、ワインを作るのが好きという田舎暮らしのマガリという女性です。
マガリは気さくで気丈で、気取らない、何でもハキハキと口にする気丈さから、息子とは上手くいかないけれど、息子のガールフレンド、ロジーヌとは妙に息が合う。
この映画では3人の女性が描かれますが、この息子のガールフレンドの大学生というのが若い女の子なのですが、もの凄く大人びている、
もう、若いのに恋愛の達人のようです。
イザベルとロジーヌがそれぞれ、マガリに「恋をさせよう」「恋の相手を紹介しよう」と動き出すことから起きる喜劇。
マガリ、イザベル、ロジーヌ・・・年は違ってもこの3人は似ている部分があり、それは「自分をしっかり持っている」という事です。
とにかく女の子は賢くなくても、若くなくちゃ、可愛くなくちゃ・・・という男性の妄想を打ち消すのが、一番若い女性であるはずのロジーヌの成熟さでしょう。
もちろん、若く美しく聡明な女の子ではあるけれど、一番成熟して、達観しているのはロジーヌのようで、でも、やっぱり大人をわかっていないのね、という部分も上手く見せています。
3人の女性の服のセンスの良さにも目を奪われます。Gパンにざっくりしたセーターのマガリ、センスのよいアクセサリーをさりげなく身につけるイザベル、若いのに黒や茶色といったシンプルな服をそれはそれは綺麗に着こなすロジーヌ。もう、私には真似できないファッションセンス。
安直に、いくつになっても恋をしなくちゃダメよ、というのは「(気持や外見が)若くなくちゃダメ」という無理な決めつけを感じてしまうのですが、この映画ではそんな「若くなくちゃダメ」というものが全くなく、大人には大人なりの恋がある、と堂々としています。
もう若くないのだから、恋なんか、というマガリを説得しようとする、2人の友人はそれぞれ恋をしながら、恋を薦める。
マガリはワインを作っていますが、畑仕事といってもフランスです、葡萄です、ワインなんです。ワインは何年寝かしたらいいのか、といったワイン話も出てきますが、ワインは新しければいいというものではなくて、年代物には年代物の価値がある。
男性も女性も年代によって価値がそれぞれ違う、という違いをいやらしくなく、上品に、しかし気取りなくスムーズに映画にする、というのがこの「恋の物語・最終章」
男性もそれぞれで、ロジーヌがマガリに紹介しようとするのが、かつて自分がつきあっていた親子ほど年の離れた哲学教師。
この教師が、まだロジーヌに未練たらたらなのに、「女は若ければ若いほど良い!」というのを、コミカルに見せつけてくれる所が笑えます。若い女の子を、じぃ~と無意識に見つめる時の目がね、もう、「若い」を追っかけてるだけの俗物哲学者っていうのが皮肉です。
そんな大人の皮肉もきちんと味付けしていて、この映画は大変すぐれた人間観察映画でもあります。
私の勝手な想像ですが、エリック・ロメール監督がこの四季の物語で行き着いた事って「人間は(外見、若さではなく)賢さだ」という事なのかもしれません。
更夜飯店
過去持っていたホームページを移行中。 映画について書いています。
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